表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何を願って  作者: 文絵
2/101

第1章 ここでないどこかへ 2

 携帯電話を手に開いたまま、推測と想像で補えば目を瞠るか口を開けるかして、少女は相手をみつめているのだろう。赤い姿は女性と思しく、背丈があり、まっすぐな髪が肩を覆い、ワンピースをまとっているように見えた。女性? 否、女性を模している、とするべきだろう。赤いガラスかプラスチックででもできているかのようで、髪も体も服も一繋がりになっていて、しかるに裾や袖口は布の如くに揺れている。ことんと鳴った靴音も、少女でなくあれが立てたのだったかもしれない。


 少女が後ずさり、半透明の女性像は少女の手首をつかんだ。携帯電話のない方だ。ひ、というような声を少女は立てた。


「何の……つもりよ!」


 悲鳴は気丈なようであったが、怯えに掠れてもいた。赤い女性は笑ったかに見えた。


 いつの間にか開いていた唇を、晶は合わせた。


 腰を抜かしてもよかった。一目散に逃げてもよかった。どうしようと自由だった。女性は少女のみをみつめ、こちらには目もくれなかった。却って気分を害しそうなほど、あるいはいっそ爽快なほどに、注意を払っていなかったのだ。


 ――そんなの、ない。


 赤い光が射してきた。少女はまた一歩下がろうとするが、赤い手が手首を放さない。一歩、二歩、三歩目辺りから駆け足に、晶は向かっていった。


 走り寄る僅かな間に、光は強くなり、赤みを増し、少女を呑んだ。青いTシャツが紫に染まり赤に染まり、伸ばした指先は何にも触れなかったけれど、少年の全身もまた赤い光に余すところなく浸っていた。




 草木と土の匂いが鼻を擽る。顔の前に蹲る左手は落ち葉を下敷きにしており、その向こうに色濃い葉をつけた赤っぽい茎と、さらに向こうに年季の入った木の足元が見えた。涼しくて幾分暗いのはどうやら森の中らしいと、見て取ると晶は瞼を閉じた。では、うまくいったのだ。ついていくことができたのだ。


 父は成人前の子供を穀潰しと思っているし、母は子供さえいなければ離婚できるのにと思っている。何であったか些細なことで担任に大袈裟に褒められてから、話し相手は減っていき、尽きた。将来に描く夢もない。歌が好きなら歌手を目指そう、サッカーが好きならサッカー選手に、というアドバイスはあまりに短絡だ。そのような単純極まりない図式が成立するものではないのだと、夢を持たないからこそ晶はよくわかっていた。


 虐待を受けているわけではない。いじめられているわけではない。邪魔なら消えようと思いつめるほど父母を愛しても、当てつけにと思いきるほど憎んでもいない。足が竦むほどいたたまれない教室でも、一挙手一投足に難癖をつけてくる同級生でもない。ないない尽くしで自殺もせずに今日を迎え、明日を迎え、明後日もその先も迎えるのだろうと思っていた。


 非現実な出来事なら自分にこそ起こってほしい。


 自分をこそ連れていってほしい。


 助けようとか身代わりになろうとか、思わなかったとは言いきれないが、赤い光に駆け込む晶が自覚していたのは、寧ろそういう思いだった。少女は二の次だった。呑み込まれていく意識の中に、恐怖らしいものは露ほども浮かばず、代わりに満ちていたのは一種の安堵、それとも期待であったろうか。


 逃せば二度となかったであろうチャンスに、どうにかしがみつくことができた。


 達成感とは言えない。努力を重ねてきた結果ではない。解放感でもないだろう。重圧に苦しんでいたというほどでもない。いずれにしても晶は、安らぎの中で湿った地面に頬ずりをした。衝動的に銀色のフェンスを乗り越えるより、同じ逃避ならこちらの方が遙かによい。あの少女は死でないものへの導き手となってくれたわけだ。


 右膝の上辺り、ズボン越しに小石の感触を覚えた。尖っておらず痛みはない。投げ出した右腕は木の根に乗り上げ、指先がかさつく樹皮に触れている。蟻であろうか、小指の方から這い上がってきた。肌の上を動き回る。擽ったくて、静かに手を握り締めた。まったく蟻というのはあんなに細い足で、あんな小さな体の割にあんな速さで歩き回るのだから――。


「マリッカに会わせてください!」


 目覚ましに叩き起こされたように、勢いよく上がった瞼は音でも立てそうだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ