六
巨大台風が直撃した。テレビ中継に映されるのは風の壁を必死に押す通行人と、風に引きずられる軽自動車。私を心配させたのは窓から見える街路樹の激しい揺れ様である。そのままドミノ倒しになり、根こそぎ飛んでいくのではないかと思わせるほどであった。風は延々と窓を叩いた。
枝から葉が引きちぎられ、秋が奪われていく。彼の痛みに耐える呻きが想像できた。
翌朝の日曜には嘘のように猛威は消え失せ、静けさを取り戻していた。私は着の身着のまま外へ飛び出した。
無残にも葉が赤黒く散りばめられていた。血痕のようであった。
彼は亡霊のように立ち尽くしていた。「消えてしまった」と今にも存在そのものが消滅しそうな弱弱しい声で言った。生命を感じられない瞳は、秋のなれの果てを映し出していた。
「秋の炎が、燃え盛る前に消えた……。もう今年は駄目だ。約束は果たせそうにない。エツコさん……」
その名前が私の胸をえぐろうとする。彼は秋彦ではない。勝手に意思を受け継ぎ、独り待っているだけにすぎないのだ。六十年も! 彼にとってその年月は痛くも痒くもないのだろう。でも人間は違う。一生に近い。
「諦めるんですか?」
彼は寂しげに頷き、肯定した。来年の秋に持ち越す気なのだ。
秋彦は死んだ。彼だって馬鹿ではない。江都子さんが二度と来ることはないと、本当は理解している。それでも待ち続けるのだろう。焼印のように刻み込まれた秋彦の思いだけは手放したくなくて。
「諦めることはないです。まだ大丈夫ですよ」
「この姿でいられるのは、ヒグラシが鳴き始めてから葉がすべて落ちるまでなんだよ。葉はほとんど散った。もう紅葉の季節は過ぎた」
「まだ!」
私は声を荒げた。もう彼の待つ姿など、これ以上見たくはなかった。江都子さんの寂しそうな顔もまた。
「まだ、炎は燃えてる。あなたがいるじゃない!」
まだ秋は息吹いている。その証拠に、髪は炎のように紅い。
ああ、あなたは秋の化身なのだ。
「会いに行きましょう。ただ待ってるだけの男は駄目。こっちから江都子さんに会いに行きましょう」
「だ、だけど。僕がこの姿で行ける範囲はこの自然公園の敷地内だけで」
「そんなもん知るかァ! そんなもん根性で何とかなんの! 無理矢理にでも行くの! 会いたくないんか!? 私なら会いたい! 何が何でも会ってやるげん!」
私は待つことしか知らない木の精に活を入れてやった。彼は私の覇気に驚いたものの、決心の顔つきに変わった。彼は力強く頷いた。
「わかりました。では真夜中、もう一度ここへ来てください。協力してください!」
「当たり前でしょ! 友だちなんだから!」
***
今宵は朧月。電灯がぽつりぽつりと照らしている。人影はない。私は気合を入れ、冬用のパジャマにしている高校時代のジャージを着込んだ。白いタオルを首に巻き、手袋をはめた。部屋の明かりはそのままに、初めから音に注意を払った。懐中電灯片手にジョギングを装った。
彼の姿はなかった。呼びかけてみたが、木は黙っている。木には口がないのだから、しゃべることができないのは当たり前である。どうやってコミュニケーションを取ればいいのか、私は困り果てた。しかし、木には目というものはないのに、彼はずっと秋彦を見てきた訳であるからして、口がなくてもコミュニケーションができる筈であった。
と、私はピンと来て、幹を触わってみた。不思議な気分であった。
『さすがですね』
彼の声が聞こえたことに驚き、手を放した。私はもう一度、幹に触れた。
「すごい。テレパシーだね」
私は小声で言った。
『そうですね』
「木もしゃべれるんだ」
『はい。普段は黙っていますけど。鳥たちが流行を教えてくれます』
私は思わず吹き出した。彼のように図書館に行かない木たちにとって重要な情報源なのだろう。しかし彼らだって通行人のファッションであれば時代の流れを感じさせることができるだろう。普段から、あのスカート短すぎない? とか、ちょっとファッションださくない? とか、ちょっと太り気味じゃない? とか思っているのであれば面白い。これからは人の目ではなく木の目が気になってしまう。
『あなたは平常だと思いますよ』
「あっ、心の中読んだでしょっ」
『すいません。聞こえるものですから』
私はけらけらと笑った。
『来てくれて、本当にありがとうございます』
「あなたと江都子さんのためじゃん、ね?」
『はい! じゃあ、行きましょう。少々、距離を置いてください』
人の姿が現れるのかと思いきや、木が左右に揺れ出して、地中で亀裂の音がした。恐るべき予感は当たった。コンクリートがひび割れ、盛り上がり始めたのである。ずずりっ、ずずりっ、と、聞いたことのない不気味な音が足元で響いていた。
彼は太い根を無理矢理に引っ張り上げた。タコ刺しもタコ焼きも好きではあるが、予想だしていなかったその動作は何とも言い難く、身震いの他ない。
ついに全体が地上にさらされた。私は驚きを隠せずに、恐る恐る長い根をまたいで、幹に手を触れた。
「木って動けんの……!?」
『はい。ただみんな、のんびり寝ているのが好きなんです』
私は手を放し、ただのぐうたら兵衛ではないのかと思った。しかし、自然はみんな生命によって動いているのだとこの目で実感させられた。
私はまた手を触れる。
「このまま行く訳ね?」
『はい。どうか人目に触れないよう見張っていてほしいんです』
「オーケー。アキヒコさんも、なるだけ音を立てないように」
『努力します』
ずずりっずん、ずずりっずん、と、根を引きずった。まさか木と歩くことができるとは、夢のようである。
麦わら帽子の少年の石像が見えた。私たちを見て笑っている。応援しているのだろう。目指すは、病院という名の白い屋敷だ。
***
江都子はベッドに腰掛け中庭を見つめていると、看護師が体調をうかがいに来た。
「すっかりイチョウが散っちゃいましたね」
「ええ、本当に」
あと少しで金色に近い黄色が広がったのに。看護師は江都子が寂しそうに俯き微笑むので胸を痛めた。
「また来年の秋」と、江都子はそこまで言って止めた。目を見開いて言葉を失った。看護師は彼女の視線の先を見やるが、特に何もない。江都子は視線をそのままに口を開かせる。
「散歩してきてもいいかしら?」
「外は寒いですよ。また体調崩しますよ」
「ガウンを羽織っていきますから」
江都子はいても立ってもいられず膝のガウンを羽織った。
鮮やかな赤が中庭に。そして同じくらいの真っ赤な髪の男が微笑んでいる。
「秋彦さん……」
駆けだそうにも足がうまく動かない。アキヒコの方から彼女のもとに駆け寄った。
「やっと、お会いできました」
とても懐かしく、もう二度と聞けないと思っていた声。
「ごめんなさい。秋彦さん。こんなにも待たせてしまって」
「いいんです。いいんです」
互いの涙を指で拭った。
「うふふふ。その髪、とても似合っているわね。まるでモミジの妖精ね」
「そうですね」
アキヒコも笑った。
あなたは秋彦を貫く。それが江都子さんのため。
隅で二人をじっと見ていた私は背を向かせ、その場から去った。
さようなら。アキヒコさん。
さようなら。江都子さん。
早くも木枯らしである。当分は自然公園に行かないだろう。今頃、騒ぎになっているに違いあるまい。
秋は終わりを迎えようとしていた。
モミジの妖精、か。生き物全てには心が宿っている。思いが強ければ強いほど、人々に姿を映すのだ。彼が消えても、冬には冬の誰かが姿を現すのだ。そうやって季節は繰り返していくのだろう。
帰宅すると、既に話題騒然となっていた。自然公園のモミジが一本根こそぎ消えたとワイドショーでやっていた。アナウンサーが「台風から我先に逃げちゃったのでしょうかね」と冗談交じりにコメントしていた。
***
「やっと今日退院だね、おじいちゃん。結構長引いちゃったね」
「おお。体がなまってなまって」
「全然なまってないでしょ。あれだけ走ったり腹筋したり腕立て伏せしたりして」
荷物をまとめながら呆れていると、おじいちゃんは真面目そうに私を見た。
「それでだな……。真夜中、中庭で何やっとったん?」
ぎくりとした。まさか起きていたのか。私はおじいちゃんが従弟と夜遅くまでテレビゲームに付き合って叱られていたことを思い出した。
「木と歩いとったな? あの木はニュースでやっとったモミジやろ?」
見られてしまった。細心の注意を払っていたのに、帽子をかぶっておけばよかったと後悔した。何て目が効くおじいちゃんだろう。ひとまず、寝ぼけてたんじゃない? と誤魔化そうとしたが、その前におじいちゃんは身を乗り出した。
「お前も付き合い大変やな? はっはっはっはっは」
おじいちゃんも昔、木が歩いているところを見たのだろうか。
雑に植えられている不思議なモミジに人が集まっている。十一月になっても、彼は炎を絶やさないでいた。マスコミは真相を突き止めることはないだろう。誰もまさか、木が自分の意思で動いて、愛の力で紅葉を復活させたなんて信じないだろうから。いずれ人の手で元の場所に戻されてしまうのだろうか。それだけが気がかりだ。
「あのね、おじいちゃん。私、別に恋したから彼に会いに行ってた訳じゃなかったみたいなんだよね。ただいつも通りに会いに行ってただけな訳ね。でもあの人、全然気づいてる感じじゃなくてさあ。あの人はずっと代わりに待ってたから、それで知らない間に恋しちゃったんじゃないかな? 恋は盲目っていうじゃない? あ、別に略奪愛なんかじゃないよ? だって私は無関係だもん。彼女の笑顔が見れただけで私は幸せ。本当のことを伝えに行く気はないから。だって教えちゃったらますます昼メロみたいになっちゃうでしょ? ね? おじいちゃん――」
〈完〉




