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秋彦  作者: 鳥丸唯史
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 いつもと変わらず、アキヒコさんはベンチに腰掛けて本を読んでいた。

「やあ。こんにちは」

「聞きたいことがあります」

 私は立ったまま言った。

「はい。何でしょう?」

 いつもと様子が違うことに気づいたのだろう。不思議そうな目で見つめ返してくる。

「あなたの苗字を教えてほしいんですよ」

「……え?」

 彼は困惑の色を見せた。当然だろう。

「それから、エツコさんという方のも」

「一体、どうしたというんです?」

「あなたこそ言えないんですか? それとも知らないんですか?」

 いじわるを言っている訳ではない。私はこのわだかまりを払拭させたいだけだ。険しい顔をしていたのだろう。アキヒコさんは耐え切れず視線を逸らした。

「髪がオレンジ色になっていますよ」

 アキヒコさんは黙っている。

「落葉までここで待つ。そのことと、その髪の色の変化にはどんな関係があるんでしょうね。あなたは何者なんですか?」

 さあ、白状しろ。早く。

「あなたは幽霊ですか? それとも?」

「僕は……」

 抑圧に観念したようだ。

「僕は……、木です」

「……」

「僕はモミジの木です。齢はおよそ五百と六十になります」

 彼は脱力して、静かに一本のモミジを指差した。

「あれが僕の本体です」

 ああ、神様!

 私はめまいに襲われ、彼の隣に座り込んだ。

「なぜ秋彦の真似をして、江都子さんが来るのを待っていたんです?」

 アキヒコさんは呟いた。「あなたには話してもいいです」と。


   ◇◇◇


 気がつけばそこにいた。

 なぜかはわからない。でもそこにいた。

 目の前にいたものが、こっちを見てモミジと言う。それが自分のことを言っているとわかったのは、それほどかからなかった。

 隣にいる何かに対してもそう呼んでいる。その何かと自分が同じ外見であることを理解する。それらは「キ」という名前でくくられていることを理解する。

 気がつけば引っこ抜かれて運ばれていた。ようやく降ろされて、たくさんいるものの中で色が違うものが自分に触れた。

「はよう立派になるが良い。そうして秋には立派な炎を灯すのじゃ」


 ホノオヲトモス?


 何のことかさっぱりだった。でもいい響きだった。

 そいつは毎日のようにやってきて、自分を撫でた。気がつけばそいつの隣には別のニンゲンがくっついていた。気がつけばもうひとつ小さいのがくっついていた。気がつけばそいつはまたひとつになっていた。気がつけばそいつは白くなっていて、気がつけばそいつは来なくなった。

 しばらくして、またそいつは自分に会いに来てくれた。そいつは前よりも小さくなっていた。前のように撫でてはくれなかったが、代わりによく登ってきた。そして「来ないかなぁ」と言った。ああ、きっと前に一緒にいたニンゲンか。

 結局そいつはひとつで、気がつけば自分に登らなくなって、来なくなった。

 しばらくして、そいつはやって来た。そいつはよく自分にもたれかかって眠った。気がつけば二人でいた。気がつけばまた一人になっていて、頭からアメが出ていた。また来なくなった。

 くり返す。くり返す。

 なぜだろう。そいつは来なくなる前は必ず一人になっている。必ず、雨を流している。

 それがカナシイからと知ったのはまたくり返した時。

 しばらくして、また彼はやって来てきてくれた。よく本を持ってきて、声に出して読んでくれた。またたくさん言葉を覚えることができた。

 目が悪くなったのか、彼はメガネをかけた。それから本を読まずに、ぼうっとした。ある時から女の人と一緒に来るようになった。なんだか楽しそうに話している。自分も何が楽しいのか知りたくて彼の話を聞く。一人でいるときはなぜか楽しそうでない。でも、すぐにそうでなくなる。

「また会えるからいいよね……?」

 そうか。彼にとってあの女の人はいつも一緒にいたい人だ。

 セミが大声で鳴くようになってから少しして、彼はあの女の人と一緒に自分のところへ来なくなった。彼はとても楽しそうでない。

「江都子さん……」

 やって来ればそればかり。何があったのか教えてほしい。とても知りたい。

「もうすぐ、会えるんだ。これからはずっと一緒にいられる」

 とすると、エツコさんはここに来てくれるのか。また二人になれるのか。また楽しそうにいてくれるのか。

「ありがとう。いつも僕の傍にいてくれて。君はモミジの中で一番、炎のように真っ赤になって輝く」


 ホノオのように?


「君とは、長くても落葉する時までだと思う。秋が終わるまでの付き合いという訳だ。まあ……、彼女が来てくれたらの話だけどね」

 別れの言葉だった。もう二度と会えないのかと思うと、それは楽しそうでない。でも、彼は楽しそうだった。彼が楽しそうなら、それでよかった。

 彼に会いに来てくれたのは、エツコさんではなくて、見たことのない男の人だった。男の人は彼に何かを話している。彼はいつもよりも一段と楽しそうでない。

「あなた方に彼女の生涯を決める権利はない筈だ!」

 男の人も楽しそうでない。何かを取り出して彼に体当たりした。彼は倒れた。

「恨むなら倉田の野郎を恨むんだな」

 男の人はそう言って走り去った。

 彼はゆっくりと動いた。片手をお腹に当てていて、その手は真っ赤になっていた。自分と同じだ。真っ赤だ。彼はずるずると来た。自分にもたれかかると、いつもと違う何かを感じた。

(まだ……、来ない……)

 彼の口は開いていないのに、声が自分の芯まで聞こえた。

(待たなきゃ……。待っててあげなきゃ……)

 だんだん声は途切れ途切れになり、小さくなっていく。何が何だかわからない。

「えつ、こ……さ……」

 彼は何も話さなくなった。女の人の叫び声。でもそれはエツコさんではない。後からたくさんの人が集まって来た。その中にも彼女はいない。

「おい、死んでるぞ!」


 シンデル?


「ああ! 秋彦さんじゃないの!?」

「どうしてこんなことに!?」

 そうだ。どうして来てくれない? 彼はずっと待っている。まだここで待っているのに。

 何人かの男の人が彼を運び出した。

 どこへ連れて行く気だ? 彼はここにいなきゃいけないんだ。でないと、エツコさんが来ても一緒になれないじゃないか。待ってくれ! 今、自分はとても楽しくない!

 彼は戻ってこなかった。

 エツコさんが来た。でも彼がいない。

 エツコさんもいなくなって、戻ってこなかった。

 葉が全て落ちた。

 彼がいない。エツコさんも来てくれない。

 やっと理解した。この気持ち。自分は今とてもとても――。


 悲しいなあ……。


 悲しみ続けているうちに、芯から熱いものがこみ上げてきた。ぐつぐつと下から上へと、横へと、熱は枝全体に広がって、それを振り切るように震えた。熱は緑の波となって、黄色い風となって、赤い魔法になった。

 エツコさんが来ないのは、彼がここで待っていないからだ。だったら自分が待ってやる。ここに彼女がいることがわかれば、彼もきっと戻ってきてくれる。地面がコンクリートとかいうドロドロなもので覆われても、仲間たちがいなくなっていっても。

 僕が待っててあげます。

 僕があなたの代わりに待っててあげます。

 僕の名前はアキヒコ。

 あなたの代わりに待っている。秋に待っている。

 だからアキヒコ――。


   ◇◇◇


「あんまりじゃない」

 私はこの上ない怒りで声も握り拳も震えた。悲しみに暮れた彼女の前にのうのうと倉田が現れたかと思うと、許せなかった。今更、誰も罪を問うことはできない。証拠はない。時効もとうに過ぎている。まとめて地獄に落ちて裁かれていればどんなにマシだろうか。

「あなたは優しい方ですね」

「え?」

「怒ってくれて」

 アキヒコはこの六十年で怒ることすら疲れたのか、影を落とした表情には(やわ)い笑みがこぼれていた。

 それから私は二日間、彼に会いたくても会おうとは思わなかった。とにかくこの状況が許せなくて、腹立たしくて、暴飲暴食して、吐いた。みじめになって泣いた。どうせ私は赤の他人のデブ女だ。

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