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秋彦  作者: 鳥丸唯史
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 おじいちゃんはベッドで腹筋をしていた。なんてパワフル。見ている方がしんどい。

「ほれ、さーんじゅっ」

 腹筋三十回を終えると深呼吸をし、体をゆったりさせた。

「そろそろ台風がこっちに来るんやろう。仕事大丈夫なんか?」

 明日中には暴風域に達するらしい。

「通勤に支障が出そうなら家で作業だって。家じゃなかなか進まないんだけどね。いろんな誘惑があって」

「ほうかほうか。まぁまぁ、おとなしくするのが一番だわ」

 おじいちゃんこそ大人しく休んでいてほしい。

「台風が過ぎたらまた来るね。じゃあここに置いとくよ」

 私はさつまチップスのコンソメ味を机に置いた。

「来るついでに、オロナミンも持ってきてな」

「はいはい」

 次回に栄養ドリンクを持参してくることを約束し(さすがに栄養ドリンクは駄目なんじゃないか? いいのかしらん?)、私は退室した。

 視界に何かが映った。そこはおじいちゃんの病室から三番目。今まで気にしていなかったのに。もしやここは。

 表札には『倉田江都子』と書かれていた。衝撃が走り、思考がまとまらなかった。


 クラタ エツコ


 ノックの音に我に帰った。無意識に手が動いてしまっていた。「どうぞ」という返事にどきりとなる。ドアノブに震える手を添え、静かに開ける。倉田さん、もとい江都子さんがベッドで寝ていた。

「あら、こんにちは。この間はどうもありがとう。お元気?」

「すこぶる元気です。今日は庭に行ってないんですか?」

 声が上擦ったと思う。江都子さんは気づいていないようだった。

「もうすぐ台風でしょう。去るまで窓から見ていようと思って」

 私は「そうですかあ」とぎこちなく窓の外に視線をやった。ここからでもイチョウの黄緑が見える。

「いつもおじいさんのお見舞いに来てあげているのね。いつも孫に会いに来てもらって、とても喜んでいるでしょうねぇ」

 お見舞い、というよりもおつかいだ。いつも違った食べ物を要求してくるのだ。とはいえ、極上のスシが食べたいとか、宇治金時のかき氷が食べたいとか、明らかに無理なものをいじわるで頼んでくる訳でもないし、不満でも不快でもないので律儀に要望に応えてあげている。これも孫の務めだ。

「わたしにも孫がいるけれど、来てくれたのは最初の一、二回。受験勉強があるから仕方ないのだけれど」

 江都子さんは「子供の方も仕事が忙しくて」と、寂しさの上に重ねるように微笑んだ。私は「そうですか」と答える。そんな表情をしないでほしい。私まで暗い気持ちになってしまう。私で良かったらいつだって会いに来ますよ! と喉元まで出かかった。

「そうそう、あなたのおじいさんがこれをくださったの。良かったらあなた、持ち帰って召し上がって頂戴。わたしゴマは好きだけど、脂っこいものはちょっと」

 わざわざ起き上がって差しのべた机の上にはインスタントのゴマラーメン。おい、おじいちゃん!

「ああ、はい。ありがとうございます」

 おじいちゃんのことなので、体力をつけろ、元気出せ、とかなんとか言って押しつけたのだろう。

「ところでご用件は何かしら?」

 何て言い訳をしよう。カップラーメンを取り戻しに? 馬鹿な。目が泳いでしまっているだろう。変な女だなんて思われたくない。

「もし、嫌じゃなかったら、倉田さんのご主人の話をもっと聞きたくて」

 江都子さんは一瞬、何のことだろう、という表情をしたが、すぐに合点がいったようだ。

「もしかして、この前の話? それなら、あれは夫のことじゃないのよ」

「え、違うんですか……?」

「ええ、そうよ。死んだ夫と結婚する前まで付き合っていた人」

「そう、なんですか……?」

 江都子さんは「そういえば一言も言ってなかったわねぇ」と、ふふふと笑う。可愛いなあ。

「そうそう。ここだけの話、本当はその人と一緒になりたかったの」

 江都子さんはちょっとしたオモシロ話のように言う。ご主人が死んで時効になっているからって、かなりぶっちゃけた話だ。ああ、昼メロ。

「彼、秋彦(あきひこ)さんといってねぇ」

「え?」

「まぁ、そんな驚いた顔して」

「い、いえ。同じ名前の友達がいるもんでして」

 私はかぶりを振った。

「あら、そう」

「それで、実は……、もんっのすごぉーく偶然なんですけども、その人はエツコっていう人をずっと待ってるんです。あれです、いわゆる遠距離恋愛です」

「まぁ本当、偶然」

 驚きっぷりのおかげで信じてくれたらしく、江都子さんも片手を頬に当てて驚いた様子。本当に、まったくの偶然。偶然だ。しかし何だろう。この胸のざわめきは。

 そして江都子さんは昔話を始めた。


   ◇◇◇


 六十年も前の話だ。江都子さんは名の知れた華族の一人娘で、親に溺愛されていた。

 四月。十八歳の誕生パーティを開かれた時のことだ。招待客と会話に花を咲かす父と母。交わされる自慢話が気持ち悪い。江都子さんは社交辞令交じりの場が息苦しかった。主役とはいえ自分のことを話題に出された時には居心地が悪くなった。彼女は初対面の男たちの視線を恐れて、逃げるようにテラスへと向かった。

 先客が庭を眺めていた。ヒールの音に気づいて彼は振り向いた。二十代前半だろうか、刈り上げの頭で、メガネをかけていた。

角本(つのもと)会長の娘さんで」

「江都子といいます」

「僕は芹沢(せりざわ)秋彦と申します」

 彼はお辞儀をする。メガネがずり落ちそうになったので慌ててかけ直すと赤面した。

「お一人?」

 江都子さんは可笑しいのを堪えて訊ねた。

「親睦のある方に連れられ参加したのですが、普段は部屋にこもりっきりなものですから、こういった豪勢な場所は苦手でして。少しとばかり息苦しい……、あ、すいません」

 秋彦さんは申し訳なさそうに眉尻を八の字に下げた。

「いえ。わたしも親にはうんざりしていて……」

「おや? 愛されることは良いことではありませんか」

 秋彦さんは目を丸くさせた。

「限度っていうものがあるんですよ。一人で外出させてくれないし、趣味でもないドレスまで着させられるのよ?」

 わたしは着せ替え人形じゃないわ。そう溜め息をついて、苦笑しながら白のドレスを見下ろした。白は純潔さだと言って、母が無理やり押しつけたものだ。

 秋彦さんはまじまじとそれを見て、頷く。

「黒い着物の方が似合いそうです」

「黒、ですか」

「それっぽいです」

「それっぽい……」

 今まで見てきた男は両親に気に入られようと話を合わせ、己の資産や学歴を何気なく見せつけ、その親は何気なく手ゴマをする。どいつこいつも、自分の親を含むそれらがそういう人種だと錯覚しそうなほど。

 秋彦さんからは平凡さがにじみ出ていた。着古した袴。他が燕尾服やら堅苦しい恰好であるせいで彼は浮いていた。一人でここにいたのもそういった負い目があるからだろう。それが江都子さんにとって好印象だった。

「モミジ」

「え?」

「そうですね、黒の生地にモミジの柄なんてどうだろう。なんて、僕の勝手な理想ですね」

 彼は照れ臭そうにした。

「いえ、わたしモミジ好きですよ。ほら、ここの庭。あそこ一帯はすべてモミジの木なの。専属の庭師が手入れしているの」

「そうですか。なるほど、どおりでいい庭」

 うんうんと頷く。彼も庭の良さなんて測れないのだろう。思わず江都子さんは噴き出した。彼はまたやってしまったか、というような表情をした。それがまた可笑しかった。

「何も変じゃないわ。あはは」

 いいところで父に呼ばれ、秋彦さんから離れることになってしまった。愛娘を自慢げに話す父を尻目に、彼女は袴の男に視線を向けた。丸い背中が見えた。本当は猫背なのだろう。

 タライ回しされて、パーティが終わった頃には彼の姿はなかった。江都子さんは彼が忘れられなかった。

 六月下旬。江都子さんは名門女学校からの帰路についていた。一人の時間はこの間だけだった。初めは送迎がついていたが、多少の体力がないと高貴な立ち振る舞いもできないとかなんとか適当に理由を並べ、ようやく周りに関係者のいない時間を作ることができたのだった。

 突然の雨。傘を持っていなかったので慌てた。江都子さんは神社で雨宿りしようと考えた。人気のない本堂で息を切らし、シルクのハンカチーフで顔を拭った。雨は止む気配を見せない。

 木造建築の外観を観察していると、あの男が縁側に腰かけていた。

「秋彦さん……?」

 秋彦さんは飛び上がった。以前よりも髪が伸びていた。

「え、江都子さんではないですか。雨宿りですか?」

 名前を覚えていてくれたことに、江都子さんはほっとした。

「あなたも?」

「こうやって、雨音に耳を澄ませながら木を見ていると落ち着くんです」

「お隣、いいかしら?」

「どうぞ」

 少し距離を置いて座った。こんな所で会えるなんて、何を話せばいいのか。

「……雨、止みませんね」

 これしか思いつかなかった。興味のない男相手ならいくらでも感情のない言葉を紡ぎ出せるのに。

「通り雨ですから、大丈夫ですよ」

 彼の言った通り、雨はカラリと空の彼方へと去った。葉の水滴があちこちで光った。

「よろしければ、一緒に散歩しませんか?」

 江都子さんは彼のお誘いを喜んで受けた。

「僕は植物の中で一番モミジが好きです。だんだん赤く彩るのを眺めながら並木道を歩くのが何よりも楽しみなんです」

「秋が好きなんですね」

「ええ、そうなんです」

 楽しそうに平凡なことを話す彼の横顔が素敵だった。

 秋彦さんは医師になるのが夢。勉強だけでは肩が凝るので、ほぼ毎日この並木を散歩しているらしかった。途中であの神社に寄って、さっきのように心を和ませるのだという。

 彼にはお気に入りのモミジの木があった。幼少から人生を共にした友だという。よく本を読んで聞かせてあげていたと、彼は恥ずかしそうに笑った。

 江都子さんは秋彦さんと散歩をするために人目を忍んで屋敷を抜け出すようになった。何も知らない彼はいつも快く出迎えてくれた。彼の声を一字一句聞き逃さまいと耳をたてた。江都子さんも紅葉を楽しみにした。

 八月中旬。江都子さんはお見合いを持ちかけられた。相手は誕生パーティで秋彦さんと別れた直後に紹介された男だった。名の知れた財閥の御曹司で、江都子さんのことを大変気に入ったという。年も差ほど変わらない。周りもお似合いだとはやし立てている。母も彼のことを早くも息子のように思っている。焦った江都子さんはこの事態を秋彦さんに打ち明けた。

「本人の気持ちも聞かずに話を進められるのは嫌ですね。僕もそういうのは好きじゃありません」

 神社の縁側に腰かけた秋彦さんは腕を組み、困った顔をした。

「その倉田財閥の御曹司とは会われたのですか?」

 江都子さんは黙って頷いた。

「気に入りませんでしたか?」

「いい人だと思う。でもそれとこれとは違う」

「そうですか」

 江都子さんは俯いた。唇を噛みしめて、決心した。

「秋彦さん。本当は紅葉の時に言おうって思っていたけど」

「僕もその時に言おうって思っていたことがあります」

 江都子さんは顔をあげた。彼の眼差しとぶつかる。逸らすことができなかった。

「一目ぼれです」

 彼の耳は真っ赤だった。

「まさかあなたの方から来てくれるなんて思いもしなくて。あのまま、もう会えないと思っていました。だけどあの雨の日にまた会うことができた」

 これが運命。江都子さんは親に打ち明けた。自分と秋彦さんは結ばれていることを。親は凄まじく猛反対した。そいつは財産を持ってはいないだろう。地位を持ってはいないだろう。お前は幸せになりたくはないのか。

 わたしは幸せになりたい。その気持ちを共有するのは倉田の御曹司とではなく、秋彦さんと。

 江都子さんは部屋に閉じ込められた。心配して屋敷まで来た秋彦さんも追い返され、結婚の時期が早まった。一度だけ文通が許され、彼女は思いの丈を手紙に連ねた。

 待ちに待った彼からの返事。胸が張り裂けそうな思いで、その封を開けた。秋彦さんは健康を案じてくれていた。要約すると、手紙にはこう書かれていた。


 葉が色づき始めています。

 真紅に染まり、そして落ちる間、私はかの木の下で待ちます。

 既に神無月。

 神々は出雲の方へ出向いています。

 それでも我々を遠く見守って下さる神がいることを信じています。


 江都子さんは窓から下を覗き込んだ。カーテンを縛りさえすれば降りられる高さだ。

 荷物は何一ついらない。一大決心。かけ落ちしてやる。こんな所なんか出ていってやる。

 モミジが燃え盛るように染まり、朝が来る前に逃げ出した。いつもの散歩道。彼のお気に入りのモミジの木。江都子さんは彼が現れるのを待った。

 ところが、待てど暮らせど彼の姿はない。それでも江都子さんは今か今かと待った。

 関係者に連れ戻されたその日の夜に聞かされた。秋彦さんは先日に死んだのだと――。


   ◇◇◇


「……どうして、死んじゃったんですか?」

 私は年老いた彼女に訊ねた。

「持病が悪化したって知らされたわ。でも、病を抱えていたなんて、わたしは一言もあの人から聞いてなかった……。あの人、約束のモミジの木の下で亡くなっていたそう。ずっとわたしが来るのを最期まで待っていてくれていたのよ。もう少し、早く会いに行っていればね……」

 ずっと後悔しているのだろう。会ってさえいればあなたの人生は変わっていただろうに。

「もし、生きていたら、会いたいですか?」

 私は静かに問いかけた。

「そうねぇ」

 江都子さんは目尻を下げて微笑んだ。私はまともに見られなかった。

「会いたいわねぇ。散々待たせちゃってるから、まずは謝らないとねぇ」

 私は泣きたくなった。

「あなたのお友だち。彼、早くその子と会えるといいわね」

 私はこう言うしかなかった。「私も、そう思います」と。

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