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秋彦  作者: 鳥丸唯史
2/6

 私は病院に来ていた。一週間前、私に会いに訪れたおじいちゃんが突如の腹痛で倒れた。手術は成功したものの、健康自慢だったおじいちゃんはひどく落ち込んでいた。しかし、入院したおかげでいつも私がお見舞いに訪れるので嬉しそうだ。

「おじいちゃん、具合はどう?」

「おお、すこぶる元気元気ィ」

 起き上がった色黒のおじいちゃんはえいえいと腕を上げ下げしてみせた。

「中庭でランニングしとるからな。やっぱり外で動くのは気持ちがええもんだよゥ」

 だから剃りあげられた頭がテカテカしている訳だ。

「あまり無理せんといてよ。手術してまだそんなに経っとらんげんし」

「何を言うか。病室で一人なん寂しいがな。いつも外に出るおかげで友人ができたぞ」

「へぇ、よかったじゃん」

「隣の、そのまた隣の、また隣の病室でな、倉田(くらた)さんといってな。彼女もよく庭のベンチに座ってイチョウの木を眺めとる。もう秋やなぁ……」

 おじいちゃんはわざとらしく、しみじみと遠くを見た。

「あっ。ドラ焼きこうて来たか?」

「ほら。ちゃんと忘れてないよ」

 私はドラ焼きの紙袋を手渡す。

「おお、すまんな」

 嬉しそうに両手をこすり合わせてから受け取るおじいちゃん。

「ん? もう一つのは?」

 私はドラ焼きの入った紙袋をもう一つ持っていた。

「これは私の」

 おじいちゃんは「そうかそうか」と自分の紙袋を開いた。

「三つもすまんな。じゃあお前も三つなんか?」

「私は二つ」

「そうかそうか。それ以上太るなよ」

「そんないっぺんに食べないって」

 私は一つしか食べない予定だ。

 病院を後にした私が向かう先はいつもの自然公園。歩く速度を速めた。口元がにやけてくるのを抑えた。そして丸太を真二つに切ったようなベンチに座っている彼を見つけると、悟られないように近づいた。

「こんにちは」

「こんにちは。またお会いしましたね」

 視線を本から私へと移した彼はメガネの位置を直し、にっこりと微笑んだ。

 あの一件から、私はまた彼と会えそうな予感がしたので、また休日に図書館へ行った。すると帰りにこのベンチで再会できた。運命、と言ったらちょっぴり恥ずかしいが、きっと運命に違いないと私は思った。

「アキヒコさん、髪、染めました?」

 アキヒコというのが彼の名前だ。

「そうですか?」

「だってほんの微妙に茶色くなってる」

 初対面では真っ黒だったのが、僅かに薄くなって焦げ茶に近い色になっている、ような気がした。

「毎年そうみたいなんです。気候が変化していくせいでしょうか」

 私も秋から冬にかけて太り、春から夏にかけて痩せていくので、似たようなものだろう。

「前と違う本ですね。もう読み終わったんですか?」

「今はエルヴィゴラの『没落する空』を読んでいます」

 全く知らない。相当分厚いし、文字もびっしりと敷きつめられている。私なら座布団を上に乗せて寝てしまう。そして夢に文字の羅列が出てきそうだ。ぐるぐると波のようにうねりながら。悪夢だ。

「すごく難しそうな本」

「そうですね。あまり知られていない方ですし。読みやすいですよ。翻訳者のおかげですね」

「よく図書館に行くんですね」

「本が手元にある方が落ち着きますから。勉強にもなります。たくさん言葉を知っていた方が、いざという時にいいですから」

 向上心があるのはいいことだ。ずっと本を話題にするのは頭痛に見舞われそうだったので、さっさと紙袋を見せた。

「あのう、さっき病院に行ってきて、おじいちゃんにお見舞いにドラ焼きをあげたんですけどね。余ったんで一個どうですか?」

「どらやき、ですか?」

「あ、もしかして甘いの苦手?」

「いえ。僕、食べたことないんで」

「えっ、食べたことないんですか?」

「はい。でもおいしいんですよね?」

「特にここのはかなりおいしいです」

 私なんかここのメーカーは一度に三つ食べたことがある。それほどおいしい。アキヒコさんは膝に本を置き、裾を持ちつつ紙袋に手を突っ込み、ドラ焼きを一つ。一口、パクリと食べた。

「おいしいです」

「でしょお?」

 私もドラ焼きを食べる。アキヒコさんは満足そう。

「これがドラえもんの好物ですか。どおりで好きになる訳ですね」

 真面目に納得するので、私は小豆を吹き出しそうになった。

 視界はまだまだ緑色。でもきれいだった。紅葉の季節になれば有名な庭園に劣らない見ごたえのある道になる。


   ***


 おじいちゃんの姿がなかった。

「すいません。おじいちゃんは?」

 ちょうど看護婦が通りかかったので訊ねる。中庭へ出かけたと言うので、インスタントのゴマラーメンのカップの入ったビニール袋を置いておき、そこまで行くことにした。

 敷地内にある庭は広々している。車いすの少年や、松葉杖を両脇に挟みこんでリハビリしている中年がいる。診察を嫌がって逃げ回っている子もいた。

 そして整えられた芝生の辺にそってランニングしているおじいちゃんを発見した。ランニングはおじいちゃんの日課だ。看護婦が注意をしていない以上は大丈夫なのだろう。あの様子ではすぐにでも退院できそうに見える。走りを中断させるのもどうかと思ったので、終わるまでベンチで待つことにした。

 イチョウが庭を囲んでいる。黄緑をぼうっと眺めていると、年配の女性が近づいてきた。

「お隣よろしいかしら?」

 細くも和やかで上品な声づかい。その声がしんと沁みた。きっと死んだおばあちゃんと重なるからだ。

「あ、はい。どうぞ」

 女性はゆっくりと隣に腰を下ろした。私は人見知りをしない方だが、不思議とドキドキした。彼女のように、私も背筋を伸ばした。

「今日もいい天気だこと」

「そうですね」

 鳥のさえずり。とても気持ちのいい天気。

「こんな天気のいい時は、いつもこうやってイチョウを見に来ているの。入退院を繰り返していると、このお庭もわたしのお家の一部ね」

「別荘って奴ですね」

「そう。そうね。うふふふ」

 おばあちゃんは可笑しそうだった。私も楽しかった。と、私はおじいちゃんの言葉を思い出した。

「あのぉ、間違っていたらすいません。倉田さん、ですか?」

「あら、よく知ってる」

「はい。うちのおじいちゃんから聞いています」

 私はまだまだ走るのを止めないでいるおじいちゃんを指差した。

「あら、お孫さん? まぁ、本当に可愛らしくて素敵な方なのねぇ」

 目尻のしわをさらに深く作って微笑んだ。おばあちゃんの顔は和む。

「もう秋ですね」

 照れ隠しで私はそう言った。

「ついこの間まで暑かったのに、すっかり涼しくなって」

「本当ですね。もうすぐイチョウ、黄色くなりますね」

 すると倉田さんはイチョウの枝を見つめながら言った。

「こうしていると、若い頃を思い出すの。彼と初めて出会ったのは春だったけど、その時からモミジの話をしていたから」

「ここ、イチョウしかありませんね」

「そうなの。だから残念ね。イチョウもきれいなんだけれどねぇ」

 倉田さんのえくぼが何とも可愛らしかった。

「どんな人ですか?」

 ご主人のことを訊ねてみた。

「とても繊細で、優しい人。わたしの愚痴もちゃんと聞いてくれてねぇ。短い間だったけれど、よく彼とモミジの並木道を歩いたわ。毎日紅葉になるのが楽しみだった」

 ご主人とは早く死に別れてしまったのだろうか。

「ごめんなさいね、初対面なのに。ここにはあまり話し相手がいないものだから」

「いえ、いいんです」

 倉田さんはその日々を思い出すかのように、静かに柔らかそうなまぶたを閉じた。

 おじいちゃんはやっと走るのをやめて、ぜいぜい息を切らしていた。無理しなくていいのに。

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