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秋彦  作者: 鳥丸唯史
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〈秋彦〉


 キキキ……キキキ……。


 誰にも見られないところでヒグラシが鳴いている。夏の終わりが刻一刻と、近づいた。

 風がすうーっと、樹木の間を通り抜けた。

 夕暮れ。

 樹木の影が長く伸びて、そこから彼は地面を慈しむように優しく踏んだ。

「また、涼しくなった。思えば随分と変わったよ。景色が。ほら、あそこだってほんの数年前までは何もなかったのに、あんなにビルディングが建っているじゃないか。窓があんなにたくさん。夜になると、明かりがまばらにつくんだ――」

 無人の路上で、彼は語った。相槌欲しさに振り返れば緑色のモミジの葉が可愛らしくささめいた。彼は眉を八の字にして頬笑みを浮かべた。

「今年も待つさ。来年だって、再来年だって。正直言うと、もう無理なんじゃないかって、心の隅では思っている。でも僕には、待つことしかできないから、今年も、そりゃあ待つさ」

 諦めが混ざった声音だった。でも、ひょっとして、もしかしたら。彼はそのわずかながらの希望を胸に、淡い橙と桃色が彩る空を見た。


 キキキ……キキキ……。


 ああ、ヒグラシが鳴いている。


   ***


 読書の秋。彼とは九月中旬に、一人暮らしのマンションの近場にある自然公園から徒歩五分ともかからない図書館で出会った。読書といえば、コンビニでファッション誌を参考程度に読む私。その日に限っては、たまには読書らしい読書を。分厚い私小説でも読むのもいいかなと、ふと思い立った。

 外反母趾(がいはんぼし)になりかねないハイヒールも、安物のストッキングも漆黒のビジネススーツも今日はお休み。ラフなスニーカーを履き、よれよれTシャツと股下に余裕があるジーンズで装うと身も心も開放的になって、自然と笑みがこぼれた。うふうふ。

 MDプレーヤーで藤井フミヤの歌を聴きながら自然公園を歩く。お気に入りの遊歩道だからマンションに引っ越したと言っても過言ではない。弁当を作ってベンチで食べることもある。

 タオルを首にかけてジョギングをするおじさんや、幼児を乗せて自転車を漕ぐ若いお母さんが私を追い越していく。横断歩道を渡った先にはもう図書館だ。図書館は自然公園の敷地内にあると言っていい。残暑の緑に囲まれ、麦わら帽の少年の石像も木漏れ日の影に入り込んでいる。石像の少年は遠くを見つめて微笑んでいる。この子はまだ夏休み気分なのだろう。

 館内は普段味わうことのない閉塞的で遅々とした空気。私は自然とMDプレーヤーをオフにした。カウンターでバーコードを読み込む音。学生たちが本を積ませて勉強している。ああ、受験のシーズンだ。

 螺旋階段から地下一階へ。書庫。隣にも書庫。上から下まで本。ずらり、ずらりと、とにかく、本。本を取り上げられたら図書館はただの館だ。ありすぎて何から手をつけていいのやら。背表紙を見るだけでもお腹の中が文字でいっぱいになりそうだった。

 そんな私にも気になる棚があった。世界中の民族衣装について記されている資料だ。結局ファッションなんだなと苦笑しつつ、一番下にあったヨーロッパ貴族の衣装の歴史に関する本を取った。今では映画や演劇でしか見かけないゴージャスなドレスのイラストが掲載されていた。

 ページをめくっているうちに、ちゃんとイスに座ればいいものを、その場でしゃがみ込んだ。中世ヨーロッパの世界にのめり込んでいた。遠くからぱたぱたと走る音もまったく気にならなかった。馬車の音かと思っていた。

 図書館では静粛に。全国共通のルールだ。それがなぜ子ども二人がきゃっきゃきゃっきゃと追いかけっこをしているのか、迷路気分だったのか、親はどうしたのか、なぜ私のいる棚で曲がるのか、さらに履き古していた靴だったのか、それとも床がワックス塗りたてだったのか、なぜ私に突っ込む形で先頭の子が滑ってしまうのか、とにかくその数分間、不運だった。

 キギュッと耳障りな音と、私は頭をもろに書庫にぶつけた。私はマンションのエレベーター内で痴漢に頭突きをして気絶させたことがある。よっぽど石頭だったのだろう。強い衝撃で数冊の本がドサドサと降り注いだ。どうやら利用者はあまりきれいに本を仕舞わなかったらしい。

 やっと叱られるのを想像したのか、二人は表情を強張らせて逃げ出した。

 この野郎。覚えていろ。私はイライラしながら床に散乱した本を拾い始めた。

「ああ、折れてないかなぁ……」

 自分のせいだと思われてはたまらない。司書の人が現れないことを祈りつつ、本が無事か確かめた。開いていた本には、鉛筆で行に線を引いてあったり、丸で囲ってあったりした。手元には消しゴムがない。余計に苛立っていると一本の手が伸びてきた。見ると男が一人しゃがみ込んで拾うのを手伝ってくれていた。

「あ、ありがとうございます……」

「いいえ……」

 男は残り全ての本を手早く拾い、元の場所へ戻してくれた。その迷いのなさは、それら全ての位置を把握しているかのようだった。

 彼は心配そうに私の方を向いた。

「大丈夫でしたか……?」

「あ、はい。問題ないです……」

 私は苦笑いで返事をした。

「それはよかったです……」

 男はほっとした様子で微笑んだ。二十代後半だろうか。なぜか袴を着ていた。黒縁の楕円のメガネが似合っていた。昭和の香りのする人だった。誰かに似ているようだったが、思い出せなかった。なかなか俳優の名前は覚えられない。

「では、僕はこれで」

 男は会釈をし、他の書庫の列へ消えていった。私はその男をもう一度見たいがために館内をうろついた。しかし、目立つ筈の袴の彼は見つからなかった。

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