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第9話 揺らぎ始める日常

ハーブウォーターの生産ラインが本格的に動き始めてから、

アルヴェール領は活気に満ちていた。

主要都市にもハーブウォーターが広がり始め、王都からの注文も増え続けている。


「フィーナ様、これ、本当にすごいですよ!

肌がつやつやになるって、みんな言ってます!

香りもいいし、パッケージもすごくおしゃれだし!

王都では大人気ですって」

ミイナの王都の侍女友からの声に、フィーナは照れながら頬を触った。


(……たしかに、最近お肌の調子がいい気がする)

そんなふうに少し気を抜いていたとき──

「何を休んでいるんですか、フィーナ嬢」

背後から冷静な声が降ってきた。


「ひゃっ……ハーヴェイさん?」


グレイは書類を抱えたまま、じとっとした目でフィーナを見下ろしていた。

相変わらず白手袋をきっちりとはめ、隙のない服装だ。


(ハーヴェイさんって……手袋を外すことあるのかしら)

そんなことを考えていると、グレイが言った。


「まだやることは山ほどあります。次は小麦農業の効率化です」

「効率化……?」

「ええ。領地の主食であり、収穫量が上がれば生活が安定します。

小麦農家の業務データを集計してありますので、その確認をお願いします」

「えっ……いつのまに?」

「あなたが、グースカ寝ている間にですよ」


「寝てません!……ちょっとだけです!」


グレイは最近、冗談を言うようになってきた。

いや、本当に冗談なのかは怪しいけれど。

「育ち盛りなんです!おじさんと違って」

「誰がおじさんだ。私はまだ25歳だ!」


グレイはブツブツ文句をいっているが、打ち解けてきた感じでうれしい。


一方で、最近のリューはどこかよそよそしい。

話しかけても返事が短く、視線も合わせてくれない。

(どうしたんだろう……こんなリュー、見たことない)


そんなある日。

倉庫の裏で、グレイとリューが言い合っているのを見てしまった。

「……あんた、何を考えているんだ?」

リューの声は低く、怒りを押し殺している。

「仕事をしているだけです。

あなたこそ、護衛なのに、ここで何をしているんです?」

グレイは冷静だが、どこか刺のある言い方だった。


「なんだと……!」

リューが拳を握りしめた瞬間、フィーナは慌てて駆け寄った。


「リュー! ハーヴェイさん! どうしたの?」

二人は同時に振り返る。

グレイはすぐに表情を整え、淡々と答えた。

「なんでもありませんよ」


リューは舌打ちし、怒りを隠さずに背を向けた。

「リュー、待って!」

フィーナは慌てて後を追い、ようやく彼の腕をつかむようにして追いついた。

「ねえ、どうしたの……?さっきの、何だったの?」

リューは振り返り、苦い顔で視線をそらした。

「あいつを……信用しないほうがいい」

短くそう言うと、フィーナが何か言う前に、再び背を向けて歩き出してしまった。


(どうして……?二人の間に、何があるの……?)

胸の奥に、不安がじわりと広がっていく。


そんなとき、隣領地の港に第三王子が視察に来るという知らせが届き──

領主代表として、フィーナが出向くことになった。


港は朝から慌ただしく、兵士や役人が忙しなく行き交っている。

フィーナは背筋を伸ばし、堂々と歩みを進めた──そのとき。


ふと視線の先に、見慣れた黒髪が揺れた。

(……ハーヴェイさん?)

グレイが、港の倉庫の影で誰かと話している。

その相手は──アナスタシア。


淡い紫のワンピースを揺らし、グレイに微笑みかけていた。

二人の距離は近く、まるで親しい間柄のように見える。

フィーナの足がぴたりと止まった。


(……どうして……ハーヴェイさんが……アナと……?)

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

港の喧騒が遠のき、風の音だけが耳に残った。


そして──

アナスタシアが、グレイの腕にそっと触れた。

フィーナは胸が苦しくなる。


二人をよく見ようとしたその時、

第三王子テオアルディの視察団が港に到着し、周囲は一気にざわついた。

白い軍馬にまたがった殿下は、陽光を受けて灰銀の髪を輝かせ、

まるで絵画から抜け出したような存在感だった。


フィーナは思わず息をのむ。

(……すごい……)


フィーナはハッとし、倉庫に視線を戻したが、

グレイとアナスタシアの姿が人混みに紛れて消えてしまった。

(……どこに行ったの……?)


探そうと身を乗り出したところで、リューがそっと腕を取った。


「お嬢、殿下がお呼びだ」

フィーナははっとして姿勢を正し、テオアルディの前に進み出た。

殿下は柔らかく微笑み、フィーナを見つめた。

「アルヴェール領の発展は、最近とみに目覚ましいと聞いている。

君の働きだね、フィーナ嬢」

「もったいないお言葉です」

「謙遜は不要だよ。私はこの港を我が国の第一港にするつもりだ。

アルヴェール領とともに、もっと大きく発展させたい」

「……はい。微力ながら、お力になれるよう努めさせていただきす」

殿下は満足そうに頷き、次の視察へ向かっていった。


帰り道。

港から領主館へ向かう馬車の中で、フィーナはずっと落ち着かなかった。

リューが横目でちらりと見る。

「……緊張がまだ取れないのか?」

「ち、違うの……そうじゃなくて……」


リューはため息をつき、少しだけ声を低くした。

「あいつのことか?」

フィーナはびくっと肩を揺らした。

「……え?」


リューは拳を握りしめ、言葉を絞り出すように続けた。

「お前が王都の舞踏会に行ったとき、護衛でついていっただろ?

会場には入れないから、ずっと外にいたけど」


「……?うん…」


「お前と子爵様が馬車で帰った後……

あいつがあの女と話してるのを見かけたんだ」


胸がぎゅっと痛む。

「そ、それって……」


「今日も会ってただろ? 港で、あいつとあの女が一緒にいたのを……

お前も見たはずだ」

フィーナは唇を噛んだ。


リューは苦い顔で言い切った。

「だから、あいつを信用するなって言ったんだ」

馬車の中の空気が重く沈む。


「おれは──」


リューは言葉を飲み込み、しかし次の瞬間、真っ直ぐフィーナを見つめた。

「俺は、お前を裏切ったりしない」


馬車の中の空気が止まった。

フィーナの心臓が跳ねる。


「……リュー?」


「俺は……ずっと……お前が好きだった。

俺は、絶対、お前を傷つけたりしない」


その声は震えていて、必死で、どこか切なかった。

フィーナは言葉を失い、ただリューを見つめるしかなかった。


胸の奥が、静かに揺れ始める。

(……どうしよう……こんなふうに言われたら……)

馬車はゆっくりと揺れながら、夕暮れの道を進んでいった。


馬車が領主館に戻ると、玄関前にグレイが立っていた。

黒い外套の裾が風に揺れ、彼はまるでずっと待っていたかのように姿勢を正した。

「お帰りなさい、フィーナ嬢。第三王子殿下は、いかがでしたか?」

その問いに、フィーナの胸が一瞬だけ強く締めつけられた。


(……どうして今日に限って、そんなこと聞くの)


フィーナは視線をそらし、努めて平静を装って答えた。

「……殿下は、とても立派だったわ。

領地のことも褒めてくださったし……未来についても話してくださった」

言葉は丁寧なのに、どこか距離を置いた響きになってしまう。


グレイはその微妙な変化に気づいたようだった。

「それは……良かったですね」


「ええ。──でも」

フィーナはグレイをまっすぐ見上げた。

「あなたは今日、何をしていたの?

一緒に港に行ってくれると思ってたのに」


グレイの目がわずかに揺れた。

「……申し訳ありません。どうしても外せない用事があったので」

「外せない用事?」

「はい。詳しくは……言えません」


フィーナの胸がちくりと痛む。

(……アナといたのは言えない用事?どういう意味なの……?)


「……そう。分かったわ」


フィーナは短く言い、くるりと背を向けた。

「行くわよ、リュー」

「ああ」

リューは自然にフィーナの横に立ち、彼女を守るように歩き出す。


二人が並んで領主館の中へ入っていく。

その背中を──グレイはじっと見つめていた。

まるで、言いかけた言葉を飲み込んだような、そんな表情で。


(……どうしてこんなに胸がざわつくの)


フィーナは振り返らなかった。

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