第8話 不穏な舞踏会
王都の大広間は、無数のシャンデリアが光を散らし、
まるで星空の下にいるようだった。
今日の彼女の装いは淡い水色のドレス。
胸元には繊細な銀糸の刺繍が施され、
スカートは湧き水のように透明感のある光沢を放つ。
髪はゆるくまとめられ、小さな白い花の飾りが散りばめられていた。
父は深い紺の礼服に身を包み、フィーナのドレスと自然に調和している。
フィーナは父の腕にそっと手を添え、緊張しながらゆっくりと会場へ足を踏み入れた。
フィーナたちが会場に入った瞬間、周囲の視線が一斉にフィーナへ向けられた。
(……まだ噂されてるのね)
胸の奥が少しだけざわつく。
そんなフィーナの手を、父がそっと握った。
「気にするな。堂々としていればいいんだよ」
優しい声が、胸の奥に染みる。
「フィーナはとってもきれいだよ。誰に見られても恥ずかしくない」
「……お父様……」
その言葉に、フィーナの緊張は少しだけ和らいだ。
だがしばらくすると、友人に父が呼ばれてしまった。
「フィーナ、すまない。ちょっと行ってくるよ。なに、すぐ戻ってくるから」
父はそう言い残し、人混みの中へ消えていった。
フィーナは壁際へ移動し、そっと背を預けようとした──その瞬間。
「おい……フィーナじゃないか」
聞き覚えのある声に、フィーナの肩がびくっと震える。
振り返ると、エドガーとアナスタシアが並んで立っていた。
アナスタシアは扇で口元を隠し、にっこり微笑む。
その笑みは、どこか冷たく感じられた。
かつて婚約者だった男は、相変わらず完璧に着飾り、
自信に満ちた表情でフィーナを見下ろしていた。
「久しぶりだね。まさか君が舞踏会に来るとは思わなかったよ」
フィーナは、にこりと微笑んだ。
「ええ。ご無沙汰しております、エドガー様。
お二人とも、お変わりないようで何よりです」
エドガーは薄く笑い、わざとらしく視線を周囲に流した。
「ところで……パートナーはどこだい?
まさか一人で来たわけじゃないだろう?」
アナスタシアが扇を口元に当て、小さく首を振る。
「エドガー様、そんなことを言ってはいけませんわ。フィーナは……ねぇ……」
一見、気遣うような言葉。
けれど、その声音には柔らかな毒が混じっていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。
フィーナが言い返そうとした、そのとき──
「待たせてしまって、すまない」
凛とした声が、背後から響いた。
フィーナは息をのむ。
(この声……)
ゆっくり振り返ると、
そこには──
グレイが立っていた。
いつもの事務官用の黒い外套ではない。
深いグレーの礼服に、紺と金の刺繍が流れるように施されている。
エドガーの服よりも格段に上質だと、一目で分かった。
手には黒い手袋。
髪はきっちりとオールバックに整えられ、
眼鏡をかけていないせいで、その端正な顔立ちがむき出しになる。
まるで王族の護衛か、
いや、それ以上の存在感。
グレイはフィーナの隣に立った。
エドガーが目を見開く。
「……誰だ、君は?」
「フィーナ嬢のパートナーの、グレイ・ハーヴェイと申します。
ご挨拶が遅れましたね」
その声は落ち着いているが、しかしどこか鋭さを含んでいた。
フィーナの胸が高鳴る。
(……ハーヴェイさん……こんなに……かっこよかったっけ……?)
エドガーの表情が、わずかに歪んだ。
「……ハーヴェイ?聞いたことがないな」
グレイは微笑みながら返す。
「最近、叙爵したばかりでして。ご存じなくても無理はありません」
「叙爵? そんな話、聞いていないが」
「王都ではよくあることです。
情報が届くのに時間がかかる地域もありますから」
エドガーの眉がぴくりと動く。
アナスタシアは驚いたような表情で固まったままだ。
エドガーは鼻で笑った。
「しかし……よりによって、こんな女をパートナーに?」
フィーナの胸が痛む。
だが、グレイは一歩も引かなかった。
「こんな女とは失礼ですね。フィーナ嬢はとても素敵な方ですよ」
そう言って、フィーナの手をとり手の甲に口づけをする。
フィーナは息を呑む。
エドガーが苛立ちを隠せず声を荒げる。
「どこがだ。田舎領の娘で、婚約も破棄され──」
「アルヴェール領のことを、あなたは随分と軽く見ているようだ」
グレイの声が、少し低くなる。
「……何が言いたい?」
「あなたはまだ知らないのですね」
「何をだ?」
グレイは微笑んだ。
その笑みは、どこか挑発的で、余裕があった。
「まあ……お楽しみですよ。今日のフィーナ嬢を見ても気づかないなんて」
エドガーは言葉を失った。
アナスタシアの扇が、ぴたりと止まる。
フィーナは胸が熱くなるのを感じた。
(……ハーヴェイさん……どうしてこんなふうに……私を……)
「行きましょう、フィーナ嬢。私とダンスを踊ってくださる約束ですよ」
グレイはフィーナの手を軽く引き、人々の視線が集まる大広間の中央へと導いた。
音楽が流れ始める。
優雅で、どこか切なさを含んだ旋律。
「失礼します、フィーナ嬢」
グレイは深く一礼し、フィーナの腰にそっと手を添えた。
その触れ方は驚くほど丁寧で、けれど確かに支えてくれる強さがあった。
フィーナは胸が高鳴るのを抑えられない。
(……こんなことって……)
グレイの手が導くまま、二人は滑るように床を舞った。
ステップは軽やかで、グレイの動きは完璧で、
フィーナはただ身を預けるだけでよかった。
「……上手ですね、フィーナ嬢」
「そ、そんな……ハーヴェイさんが上手だから、私はついていくだけで……」
「いつもと違うフィーナ嬢は新鮮ですねぇ」
くすくすと笑う声が、耳に心地よく響く。
ダンスのせいか、グレイの表情のせいか、
フィーナの鼓動はどんどん早くなっていく。
周囲の視線が二人に集まるが、フィーナはもう気にならなかった。
音楽が終わると、グレイはフィーナの手を離さず、そっとテラスへと誘った。
夜風が頬を撫で、星が静かに瞬いている。
しばらく沈黙が流れたあと、フィーナは勇気を出して口を開いた。
「……どうして、ここに?」
フィーナが問いかけると、
グレイは欄干に片手を置いたまま、ゆっくりと彼女の方へ視線を向けた。
「たまたまですよ。王子主催の舞踏会は、要注意ですから」
「え、どういうこと?」
「いえ、こちらの話です」
グレイはさらりとかわし、ふっと視線をフィーナへ戻した。
「それより……私たちが踊っているのを、彼は悔しそうに見ていましたね」
「えっ、そうだったの?……そうだ、助けてくれてありがとう」
「当然のことをしただけです」
グレイの声は淡々としているのに、どこか優しさが滲んでいた。
フィーナは胸が少し温かくなる。
(……ハーヴェイさんがいてくれてよかった)
夜風が二人の間を通り抜ける。
次の瞬間──
第三王子テオアルディが、つかつかと二人へ歩み寄ってきた。
金の刺繍が施された白い礼服。
柔らかく光を弾く灰銀の髪に、瑠璃色の瞳。
その存在だけで周囲の空気が変わる。
グレイはすぐに片膝をつき、臣下の礼をとった。
フィーナも慌ててスカートをつまみ、深く頭を下げる。
(ど、どうしよう……なんで殿下が……?)
第三王子は、二人が頭を下げるのを見て、軽く手を振った。
「二人とも、楽にしてくれ。グレイ、戻ってきてたのか」
その声音は王族らしい威厳を含みつつも、どこか気さくさがあった。
グレイは姿勢を戻し、
フィーナもスカートをそっと離し、上体を起こした。
「はい、殿下。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません」
グレイが丁寧に答えると、テオアルディは軽く眉を上げた。
「来るなら来ると教えといてくれよ。お前が来ているなら、もっと早く顔を出すのに」
「いえ。殿下のお手を煩わせるのも恐れ多いので」
グレイは柔らかく微笑んだが、その目はどこか冷静で、距離を保っている。
テオアルディはふとフィーナへ視線を向けた。
「ところで──こちらの女性は?」
グレイは一瞬だけ、殿下に聞こえないほど小さく舌打ちした。
(……え? 今、舌打ちした?ハーヴェイさんが……?)
フィーナが驚く間もなく、グレイはすぐに表情を整えた。
「フィーナ・アルヴェール嬢です。本日はご一緒させていただいてます」
テオアルディの瞳が、じっとフィーナを見つめる。
そして、意味ありげに口元を緩めた。
「ああ──君が、そうか」
「え……?」
フィーナは戸惑い、胸がざわつく。
(そうかって……どういう意味?私のこと、殿下は知っているの……?)
テオアルディはその疑問を読み取ったかのように、ゆっくり微笑んだ。
「初めまして、フィーナ嬢。テオアルディ・ヴァルディアだ」
フィーナは慌ててスカートをつまみ、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。フィーナ・アルヴェールと申します」
テオアルディは微笑み、その視線にはどこか探るような色があった。
「噂は聞いているよ。一度会いたかったんだよね」
フィーナの心臓が跳ねた。
(……どうして……?私の噂って……何のこと?)
「……殿下、侍従が探しておりますよ」
グレイが告げると、テオアルディは「ああ」と軽く笑った。
「撒いてきちゃったからな。そろそろ戻るか」
テオアルディは、グレイに耳打ちすると、フィーナへ向き直り、優雅に一礼する。
「では、またお会いできるのを楽しみにしているよ、フィーナ嬢」
白い礼服の裾を翻して、さっそうと大広間へ戻っていった。
フィーナはしばらく呆然とその背中を見送った。
(……なんだろう、あの感じ……
私のこと、知ってるみたいだった……)
隣でグレイが静かに息を吐いた。
フィーナは我に返り、グレイの方へ向き直った。
「ねえ、ハーヴェイさん。第三王子殿下と……知り合いなの?」
グレイは一瞬だけ目を伏せ、すぐにいつもの無表情に戻った。
「一時期、殿下の元で働いたことがあっただけです」
(……なんだか濁してるような……)
「さあ、お父上のところに戻りましょう。きっとフィーナ嬢を探していると思いますよ」
フィーナは胸の奥に小さな疑問を抱えたまま、グレイの後を歩き出した。




