第5話 湧き水調査と精霊伝承
朝の空気はまだ冷たく、白い息がふわりと舞った。
フィーナはマントの襟を握りしめ、恨めしげに馬車を見上げる。
「……何もこんなに早くから出発しなくてもいいじゃない。
貴族令嬢は、こんな時間に活動しないのよ」
地図を確認していたグレイが、淡々と返した。
「水質調査は朝が最適です。気温が上がる前のほうが、成分が安定しますから」
「……文官って、本当に容赦ないわね」
「何事も効率ですよ」
馬車に乗り込むと、グレイも続いて乗り、
黒いコートの袖口を軽く整えてから席に腰を下ろした。
手袋をした手が、膝の上で静かに組まれる。
(……現地調査でもきっちりした服装なのね。ほんとに隙がない人ね)
今日回るポイントは四か所。
領内の代表的な水源を一日で巡るという、なかなかの強行軍だ。
30分ほどで最初の湧き口に到着した。
緑が生い茂り、澄み切った朝の空気が冷たいが心地よい。
少し歩くと、すぐに湧き出ているポイントに出くわした。
グレイは、数本の小瓶を取り出して水をすくい、
光にかざし、匂いを確かめ、ノートに記録していく。
その手際の良さに、フィーナは思わず感心した。
「……作業は完了しました。次へ行きましょう」
「え?もう行くの?」
「ええ。今日は四か所すべて回りたいので」
フィーナはすでに少し息が上がっていたが、文句を言う気力もなく、馬車へ戻った。
二か所目は、森の奥にある澄んだ泉だった。
水面が朝の光を映し、静かな気配が漂っている。
「あ……ここ、一度だけ来たことがあるわ」
「そうなんですか?」
フィーナは思わず足を止め、泉を見つめた。
「ええ、子どものころ、母と一緒に。
水を飲むと元気になるって言われてて……不思議な泉だと思ってた」
グレイが水を汲もうとしていた手をわずかに止める。
「元気になる泉、ですか」
「ええ。病気がちだった人が良くなったとか、旅人の疲れが取れたとか、
そんな話が昔からあって、子供の健やかな成長を願って皆一度は訪れるそうよ。
まあ、半分は言い伝えだと思うけれど。子どものころは、本気で信じてたわ」
グレイは何も言わず、水面をじっと見つめた。
そして、先ほどより慎重な手つきで水を瓶に注ぎ始める。
フィーナはその変化に気づき、目を瞬かせた。
(……さっきより丁寧?
もしかして、私の話をちゃんと聞いてくれたのかしら)
三か所目は、丘を越えた先にある滝だった。
視界がぱっと開け、白い水の帯が勢いよく落ちている。
奥には、休憩用らしい小屋が建っていた。
滝壺の周りには、薄紫の小さな花が風に揺れている。
「変わってないわね……」
フィーナは懐かしそうに微笑んだ。
「こちらも来たことがあるんですか?」
「ここは、精流の滝といって、幼馴染とよく来たの。
広いから遊びやすくて……
馬に乗って、ここまで競争したりもしたわ」
「馬で、ですか。子どもだけで?」
グレイが少し驚いたように振り返る。
「子供と言っても13,4歳のころよ」
フィーナはつづけた。
「この滝のふもとに住んでいる子とよく遊んでたのよ。
この辺りは危なくないのよ。精霊のご加護があるって言われてるから」
「……精霊のご加護か……」
フィーナは滝壺の水面を覗き込みながら続けた。
「アルヴェール全体が守られているって、昔から言われてるのよ」
グレイは滝壺の水をすくいながら、静かに耳を傾けていた。
「この滝は、特別な場所って言われてるのよ。
何か言い伝えがあった気がするんだけど……なんだったかしら」
フィーナは滝の上を見上げた。
水しぶきが光を受けてきらきらと舞い、薄紫の花の香りがふわりと漂う。
「確かに。滝を眺めていると神々しいというか……厳かな気持ちになりますね」
「あら、ハーヴェイさんでもそう思うのね?」
グレイがわずかに眉を上げる。
「なんですか?」
グレイの反応が妙におかしくて、フィーナは思わずくすっと笑った。
「いいえ、なんでもないわ」
グレイは、滝のそばに群生する紫の花を咲かせた植物を指さした。
「この花は……?」
「ああ、それがミストラ草よ」
「なるほど、これがミストラ草ですか」
グレイは静かに頷き、周囲を見渡した。
「確かに、こちらではよく見かけますね」
フィーナは足元の花をそっと見下ろした。
「アルヴェール領ではあちこちに自生しているの。丈夫で育ちやすいし、
見た目も香りもよくて……私も好きな花よ」
滝を後にし、馬車はさらに森の奥へと進んだ。
最後の四か所目は、森の奥深くにある小さな泉だった。
木々が頭上を覆い、光は細い筋になって地面へ落ちている。
湧き出す水量はわずかで、採水も難しそうだ。
「……ここは水量が少ないですね。採取が難しい」
グレイは慎重に瓶を傾け、なんとか必要量を確保した。
全てを回り終わり帰りの馬車の中。
「やはり、精流の滝が第一候補かしら?」
「そうですね。条件をすべて満たしているのは、
あの滝です。成分分析には少し時間がかかりますが……ほぼ間違いないでしょう」
馬車は森を抜け、なだらかな道に出た。
窓の外を眺めていたフィーナが、ふいに「あっ」と声を漏らす。
「……思い出したわ。
『滝は精霊の通り道、大地巡りて護り給う、風にたゆたう翠は、揺標となる』
これが滝の言い伝えよ」
「ほう。意味はなんですか?」
フィーナは少し考えるように息を整えた。
「昔の言葉だから少し難しいけれど……
要するにね、滝で生まれた精霊の力が流れ出して、
アルヴェールの大地を満たし、人々が大地を大切にすれば、精霊が見守ってくださる。
そんな意味だったと思うの」
グレイはわずかに目を細めた。
「へぇ……アルヴェールには、そんな言い伝えがあるんですね」
「古い土地だからね。家に帰れば、伝承についての文献があると思うけど、見たい?」
「ええ、是非拝見させてください」
馬車の窓から差し込む光が、フィーナの揺れる髪に淡く落ちる。
その温かさに誘われるように、まぶたが重くなっていく。
気づけば、フィーナはクッションを枕に、静かに眠りへ落ちていた。
グレイは眠るフィーナの横顔を見つめ、ふと――
領主である彼女の父から依頼を受けた日のことを思い出した。
「娘は……領地が大好きなんです。領地の自然の中でよく遊び、
森や畑、領民たちの絵をよく描いていました。
しかし、婚約が決まってからは、あまり領地にも行けず我慢ばかりさせてしまいました」
父は静かに続けた。
「どうか……あの子がまた、自分の手で未来を描けるように支えてやってほしいのです」
(今日は疲れただろう。
貴族令嬢が文句も言わず、こんな山の中を歩き回ったんだ。
思った以上に根性がある。
本当に、領地を大切に思っているんだな……)
フィーナの寝息を聞きながら、
グレイは彼女が語った伝承の言葉を思い出し、地図を広げた。
「……やはり、この滝が中心か」
滝から流れ出た水が、領地全体に広がり、
地形的にも、水脈の起点となっていた。
(滝は精霊の通り道、大地巡りて護り給う……か。
もし、伝承が事実なら──)
考えを巡らせながら視線を戻すと、フィーナが小さく身じろぎした。
疲れの色を残したまま、穏やかな寝息を立てている。
グレイはそっと上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
(……俺の求めた答えが、そこにあるかもしれない)
胸の奥に静かな確信が芽生え、彼は再び地図へ視線を落とした。
馬車は静かに揺れながら、領主館へと戻っていった。




