第1話 婚約破棄と決意
「……婚約破棄、か……」
フィーナはベッドの上で膝を抱え、ぽつりと呟いた。
多少ショックはあったけれど、泣き崩れるほどではない。
むしろ、胸の奥ではホッとしている自分がいた。
(正直……もっと早く言ってくれてもよかったのに)
フィーナは18歳。
貴族の女性の結婚適齢期は18〜20歳。この年齢で婚約破棄は、決して軽い出来事ではない。だからこそ、「今さら?」という気持ちがどうしても湧いてしまう。
思い返すのは3年前──
フィーナが15歳で学園に入学したとき、バルメイン侯爵家から突然申し出があった。
実直なアルヴェール子爵領に、ぜひ息子をと。
格上の家からの提案を、子爵家が断れるはずもなかった。
そうして決まった政略婚約。
アルヴェール子爵領は、山と川に恵まれ、広い平地が広がる豊かな土地。
小麦の一大産地で、生産量は国の三割を担う。
のんびりしているが潤っていて、治安も良い。
隣領の港町からは新しい物が流れ込み、町はいつも活気がある。
フィーナは幼い頃から馬に乗って領地を駆け回り、そのすべてを肌で感じて育った。
大好きな領地だった。
一方のエドガー・バルメインは、フィーナより3歳年上。
銀髪に碧眼、すらりとした体躯。
立っているだけで周囲がざわめく、完璧な貴公子。
毎晩のように社交界へ出かけ、華やかな令嬢たちに囲まれていた。
アルヴェール領には、婚約後に一度だけ訪れたきり。
婿入りする予定の土地なのに、興味を示す様子はなかった。
(華やかな場こそ、自分の居場所だと思ってる人だものね)
対してフィーナは、茶色のふわふわした髪に薄紫の瞳。
自分で言うのもあれだが、それほど悪くはないと思う。
派手さはないが、地味すぎるわけでもない。
ただ、社交界で目立つタイプではなかった。
そもそも二人は、深く交流していたわけでもない。
会うのは2~3ヶ月に一度、お互いの家で一時間ほどお茶をする程度。
エドガーは社交界の話ばかりで、フィーナは興味を持てなかった。
(政略婚約なんて、こんなものよね)
だからこそ、婚約破棄そのものは、そこまで堪えるものではなかった。
問題は──
昨夜のことが蘇る。
卒業後、大人として初めて参加した王家主催の舞踏会。
エドガーがエスコートし、フィーナも華やかなドレスに身を包んで参加した。
「似合ってるよ」
エドガーは一瞥しただけで、それ以上の言葉はなかった。
一曲踊り終えると、彼はフィーナをテラスへと連れ出した。
夜風がひんやりと頬を撫でる。
その静けさの中で、エドガーは穏やかな声で告げた。
「実はね、フィーナ。私は君との婚約を破棄することに決めた。
以前からずっと考えていたんだ。だが……ようやく決心がついた」
あまりにも淡々とした口調だった。
まるで残念だが仕方ないと言わんばかりに。
「えっ?」
フィーナはびっくりして、言葉が出ない。
「私は社交を何より重んじている。
貴族として家を牽引し、王都で影響力を持つ立場だ。
だが君は──卒業しても、入学当時と何ひとつ変わらないじゃないか」
フィーナは茫然とした。
「君は領地を走り回ったり、家にこもって本や絵ばかり。
もちろん、それが悪いとは言わないよ。
ただ……君は自分の立場を理解していない」
さらに追い打ちをかけるように、彼は続けた。
「それに、君の領地は地味すぎるんだよ。
小麦以外にこれといって特色がないだろう?
私は、もっと華やかな場所で生きるべき人間なんだ」
地味──
その一言が、胸に深く突き刺さった。
エドガーはため息をつき、肩をすくめた。
「そして気づいたんだ。
私はアナスタシアのような女性と共に貴族社会を牽引すべきだと。
私とアナスタシアはピッタリなんだよ。
すまないが、理解してくれるね、フィーナ。これは、お互いのためなんだ」
その名を聞いた瞬間、フィーナの心臓が跳ねた。
──アナスタシア。
そして、まるでその言葉に呼応するように、
テラスの入り口にアナスタシアが姿を現した。
「……フィー、ごめんなさい……私……どうしても……」
扇で口元を隠し、悲しげな瞳を向けてくる。
その表情は、まるで仕方なかったのと訴えているようだった。
けれど──
フィーナの胸の奥に走った痛みは、エドガーの言葉よりもずっと鋭かった。
この場に、もう一秒もいたくない。
フィーナは一度深く息を吸い、感情を押し殺すように静かに言った。
「……エドガー様のお考えは、よく分かりました。こちらから申し上げることはありません」
丁寧に一礼する。
この後、父は伯爵と話すために残り、フィーナは母と先に帰った。
「アナ、かぁ……」
胸がちくりと痛む。
アナスタシア・ヴェルディエ子爵令嬢。
フィーナと同じ年の大親友、アナ。
ピンクブロンドの艶やかな髪に宝石のような紫の瞳。
舞踏会に立てば誰もが振り返るほどの可憐さを持つ少女。
けれど、その中身は見た目とは真逆だった。
私以上にお転婆で、行動力の塊。
推し活では、「聖地巡礼よ!」と言って一人で山奥まで行くし、
「いつかハル様と手合わせするの」と言って体術まで習っていた。
なかなか筋がいいとほめられると自慢されたっけ。
そんなアナとフィーナの出会いは、王都の図書館だった。
たまたま同じ本に手を伸ばした。
「この本、お好きなの?」「ええ……あなたも?」
それは、英雄ライとハルの魔獣退治シリーズ──
実在した二人のS級冒険者を題材にした人気の伝記物。
「私は……ハル様のファンなの」アナが頬を染めていう。
「えっ、そうなの?私はライ様が大好き!」フィーナも思わず笑顔になった。
そこから二人は一気に仲良くなった。
学園に入学してからも、推し活で盛り上がった。
「ライ様のあの戦い方、どんだけ繰り出すの!!」
「ハル様の剣さばきは光のように美しいのよ!」
「「ああ、かっこいい~」」
フィーナは本も読むが絵を描くことも好きだった。
授業の合間や部屋で、ふとした瞬間に筆を走らせてしまう。
アナはその絵を見るたびに、「フィーナの絵、ほんとに好き」と言ってくれた。
ライ様とハル様を描いたときは、
「これ、私の部屋に飾りたい」と言って本当に持っていってしまったほどだ。
二人はいつも一緒に過ごし、フィーナの家にもよく泊まりに来ていた。
「うちは大丈夫だけど、こんなに来てて、ご両親に怒られない?」と聞くと、
「あの人たち、私に興味ないのよ。お金さえ置いておけばいいと思ってるんだから。
でも、フィーナがいるからいいのよ」
あの寂しそうな笑顔。
アナは家族とうまくいっていなかった。
母は幼い頃に亡くなり、父は一年も経たずに再婚。
義母との間に子は生まれなかったが、父は義母に夢中でアナのことはほったらかし。
二人は華やかな舞踏会が好きで、しょっちゅう出かけていた。
家ではいつも独りぼっち。
だからこそ、フィーナはアナを大切にしてきた。
──そのアナスタシアが、エドガーの隣に立っていた。
見た目は確かにお似合いだった。
舞踏会でも「アナスタシア様の方が、エドガー様にお似合いね」
とひそひそ話しているのは聞こえてた。
可憐なアナスタシアと、完璧な貴公子エドガー。
絵になる二人。
「……アナに裏切られたことの方がショックだわ」
婚約破棄より、ずっと痛い。
アナの好みってエドガー様なの?
確かにアナの推しのハル様は貴公子然としていたけれど、
仮面で鼻から上しか見えないし、素顔はわからない。
対してフィーナの推しのライは、無造作な長い黒髪に鋭い目つき。
仮面越しでも睨んでいるのがわかる。
(……でも、それがいいのよね)
おっと、少し話が逸れた。
でも──
もうアナと笑って推し活を語り合うことはないかもしれない。
その事実が、胸の奥でじわりと痛んだ。
そして、ふと脳裏に浮かぶのはエドガーのあの言葉。
「君の領地は地味すぎるんだよ。
小麦以外にこれといって特色がないだろう?」
(……は?)
胸の奥で、別の感情が静かに燃え上がる。
「エドガー、許せん……!領地をバカにするなんて……!」
アルヴェール領は、私が生まれ育った大切な場所。
季節の匂いも、風の音も、湧き水の冷たさも
──全部、私の宝物だ。
「……見てなさい。アルヴェール領を、もっと素敵な場所にしてやるわ」
エドガーのためじゃない。
アナを取り戻すためでもない。
ただ──
大好きな領地を、誰よりも誇れる場所にしたい。




