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考える手法

作者: 緋西皐
掲載日:2025/11/06

 真実や真理には価値はない。なぜならこの世界の大半は嘘と偏見だからだ。でも気づいた。安全な嘘をつくためにそれらは必要であると。ここではどうやって真実と真理、つまり真を求めるのかを書く。

 まず真とはなんであるかを示しておく。真とは論理的矛盾が無く、実証可能な事だ。特に誰かのその主張や情報が真であるというとき、どの人間においての善悪関係なく、判断されるものだ。例にあげればその壺を買って幸福になるのか、ならないのかの答え。マムダニが社会うんぬらか、共産主義者かの答えである。これはどうでもいいが。

 言い忘れていたが、よくよく考えてみれば当たり前のことしかここには書かれていないはずだ。ただだいたいの学問、、ではないが、こういうのはそういうものだ。人間は気を抜くと当たり前のことを忘れてしまう質がある。そこに共感できるのなら意味はあるだろう。


 どうやって真であると認めれるのか。科学的な手法が基礎である。つまり人間がその事象をその説明通りに再び観測できれば実証したことになる。言い換えればその事象が人間のものとして扱えるか否かである。

 ゆえに観察し、仮説を立て、実験する。仮説と異なればそれを加えてまた仮説を立て、実験する。その繰り返しである。当たり前のことだが、これは文学の手法でもある。そこに矛盾が無いかは書いてみなければわからない。なお、この仮説とは思考であり論理である。論理的に正しくとも実証されなければ真ではない。同様にして現代の技術や人間の能力で実証できないことはわかるはずではない。例えば死後の世界など。

 今のは自然の摂理である。我々は事象を観測している。つねにである。それを生といい、実在という。自分で観測したものはたしかに事実である。それが妄想であっても、他者と共有できない事象を観測したということである。我々は実のところ個人の妄想と大勢の偶像を識別できない。大事なのはそこに利用価値があるのかである。だから真理がどうとかは単には重要でないのだ。もしもこの世界に人間が一人しかいないのであれば、その上で快適に生きていけるのであれば、その人にとって真理も学問も不要だ。そうでないと思うのであれば、真理を崇拝しているだけである。

 

 今の真は個人の範囲であり、科学の範囲である。科学とは自然が相手であり、大方それは人を区別しない。だれであれ同じことをすれば同じことが起こる。同じことさえすれば証明可能だ。でも現代、情報社会はどうであろうか。大勢の情報をいちいち自分で確かめられるのか、そもそも戦争の意図や政策の正しさ、ましてや歴史など、一人個人で確かめられるのか。無理である。

 と結論は出てしまうが、誤解しないでほしい、あくまで現状はということだ。その情報が生まれてすぐではわからないが、大きくなればわかる。つまり情報の信頼性の話だ。

 ある人物や集団が情報を出すとする。何かテーゼをかけるとする。大事なのは我々はこの方針を取る。と宣言しているわけでなく、これは自明の理である、ないしはこれは正論だ。と言い切っているかである。大方、それは信用しなくてもいいが、これは置いておいて、まずはその出典があるか、、というのも置いておこう。正直、そういう話をしたいのではない。つまりここは関係の無い段落だ。

 簡単なことだ。もしもその人物ないしマスコミ、ネットが真を語っているのであれば、その後に起こることがそれに則しているはずである。カマラハリスが優勢といって負けたのならば、そいつらは真ではない。まぁこれは冗談だ。その後に連発して外したらまぁそうだが。

 もっとわかりやすいことがある。もしもそれが真であるならば、その通りの事象が出たときに彼らは大々的に報道するだろう。自分たちは信用できると宣言するために。逆にそうでない、つまりそれ以降話題にしないならば信用に値しない。


 これほど大きな情報ならばわかりやすい。しかしもっと小さい、印象的なものだとまた変わる。誰誰がパワハラしたとか、ホテルいったとか、松本したとか、トランプはゴミなのか立憲はクソなのかどうなのか。こういった確認できない、ないしどっちでもいいことは騙す常套手段にもなる。人間は真実よりも印象を優先するという心理を逆手に取っている。何も悪いことではないが。にしても彼らはあまり褒めないな、実際にそんな悪い性格の人間がいれば、クラスで浮くだろう。

 まず印象は印象でしかない。だから誰が誰が嫌いだとか、こういう疑惑があるから悪というだけでは何の価値もない。個人の印象ならばそうである。大勢の印象となれば違うのはもちろんだが、、基本的には無視すればいい。大事なのはその人間がどういう人柄なのかより、何をするのかであって、何かしたときに我々が何ができるのかなのである。習近平がゴミのような政策をしたときに、人民がそれを阻止できるのかである。神がいるのであれば何もしない神のほうが人間にとっては楽だが、政治の範囲ではどっちもどっちだ。

 つまるところそれで社会が良くなるのか、悪くなるのか。そっちのほうが大事なのだ。そして何もしないよりは何かした方がいい。失敗であってもデータが取れる。取り返しのつかないことは避けるべきだが。なお絶対にうまく行く、デメリットはない! っていうやつはあまり期待しない。それが真である可能性もあるが、皮肉なことに最高の武器は村八分されるものなのだ。しょうがないね。

 専門家であれば違った意見が出てくるが、全ての人間が専門家ではないし、専門家もカルト宗教入ったら嘘つくからわからん。印象よりも結果を見よう。


 例えばマムダニが左派なのか、共産主義者なのか。彼の発言を調べ、過去の共産主義者と比べればわかるだろう。ただその前にその政策が可能なのか、経済学的な視点のほうが大事だ、、素人でもわかる、無理。

 でもそんなことはどうでもいい。マスメディアにとって彼は左派のほうが都合がいいし、右翼にとっては彼が共産主義者のほうが都合がいい。嘘の付き合いのカルトパーティーだ。印象だけである。だからどうでもいいのだ。

 彼がニューヨークを快適にできればそれで終わりだ。逆に不法移民だらけの最悪な貧困都市になれば別の意味で終わりだ。彼のことを貶しに貶し、ニューヨークの株を落し、買い上げ、そこから彼が成功すれば誰かは儲かる。現地の人など知らん。

 印象レベルではこのようになんでもありだ。自分の都合のいいことを適当に広めるだけでいい。だってそれが真であれ嘘であれ、大した影響、価値がないのだ。現地の人はあるかもしれんが、知らん。彼らは賢いからどうとでもできるのでしょう。


 今の事例はわからないが、そこに真を知るものがいれば最高の嘘をつけるのは言うまでもない。完全な嘘を作り上げ、自分だけが自然に則ったことをすれば一人勝ちできる。またそうでなくともその嘘のリスクを知るためにも真がいる。例えば科学、学問、そういったものに詳しい人が巧みな嘘、現実世界に影響しないギリギリの嘘を言ったとき、儲かるだろう。

 嘘を見分けるために真は必要ではない。嘘を作り上げるために必要なのだ。その嘘があやふやな嘘であったとき、損をする可能性がある。計算可能の為に真が必須になる。

 だからそういう意味で真は価値がある。そのものに価値がなくともだ。

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