(40) 未来へ
月日の流れというものは早いもので、気がつけば三月初旬になっていた。
桜子の卒業も目の前に迫ってきている。
「それじゃあ、行ってくるね!」
私の目の前の桜子が笑顔でそう言う。
「行ってらっしゃい!」
いつもと同じ玄関で、いつもと同じ時間に、いつもと同じようにハグをして、桜子を送り出す。
こうして学校に行く桜子をお見送りできるのも、あと数えるほどしかない。
そう考えるとなんだか……。
「あっ……」
桜子が出ていった玄関の扉がパタリと閉まり、その音が私の意識を現実に引き戻す。
桜子との出会いは突然で、私をこれまで歩いてきた人生から転がし落とすような、そんな衝撃的な出会いだった。
家族以外の誰かに愛情を向けることだって初めてだったし、向けられることだって初めてだった。
桜子と出会う前は、私はひとりでも大丈夫と、少しだけ強がっていた。
だから、桜子との生活の中で、自分の本心に気が付いたときに愕然としたんだ。
「私も、人並みに愛情に飢えていたんだなって……」
私は愛情に救われて、今ここにいる。
でも、愛情はなにも、いいことばかり与えてくれるわけではない。
「お別れがこんなに辛いことだなんて……聞いてないよ……」
私の瞳から大粒の涙が溢れる。
別れというものを私は正直舐めていた。
桜子に頑張れと言っていた自分が、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。
私が桜子にやっぱり行かないで欲しいと言えば、彼女はおそらく行くことを止めてしまう。
だから―
「これは私が始めたこと……だから、私がちゃんとしなきゃ」
自分の頬をいつも通りペチペチと叩き、気持ちを引き締めた。
◇◇◇
私の後ろで玄関の扉がパタリと閉まる。
こうして雫に送り出してもらうことにもすっかり慣れてしまい、この生活がしばらくの間失われることに寂しさを感じてしまう。
でも、私は雫のため……いや、未来の私たちのために頑張ると決めたのだ。
「だから、今日も頑張ろう」
私は静かに呟き、歩きだした。
何も考えずに鼻歌でも歌いながら歩きたいところだが、気分的にそうもいかない。
「最近、雫の様子が変なんだよな……」
ふたりで映画を見たり、料理をしたりしているときに見る雫の笑顔はとてもかわいらしくて、いつまででも見つめていたくなる。
でも、最近はまた、その笑顔に少しだけ影のようなものが見える。
「今晩でも話をしてみるべきかな……」
「それがいいと思うわ。また喧嘩してふたりから泣きつかれても困るからね!」
「そうだ……!?渚いつから私の隣にいたんだ?」
私が驚きながら声のした方を見ると、そこにはいつも通りの渚がいた。
「え、『今日も頑張ろう』の所からだけど」
「家の前で待ってたなら声をかけてくれよ……」
「ラコが深刻そうな顔をしてたから、声をかけ辛かったのよ。それで?今回は一体どうしたの?」
私の内心もお見通しというわけか……。
渚は本当にいい親友だ。
相談できる相手がいるということは凄く心強い。
「実は最近雫の様子が―」
◇◇◇
家事を全て終え、ふたりでベッドに腰掛けながら雑誌を読んでいると、桜子が話しかけてきた。
「なあ、雫」
「ん?」
「最近悩みとかあるかい?」
「どうしたの突然?」
「最近雫が苦しそうな顔をしているから、どうしたのかなと思ってね」
隠してたつもりもなかったけど、やっぱりこの人にはバレるんだな。
でも、これを口に出せば、私は桜子の覚悟を挫いてしまうかもしれない。
だから―
「そうかな?なんでもないよ」
私はそう誤魔化した。
しかし、桜子からの追求は続く。
「いや、なんでもなくない」
「なんでもなくなくないって」
「……」
桜子が無言で私をじっと睨む。
「本当になんでもなぁっ……!」
私が冗談交じりに否定していると、桜子が私を押し倒した。
突然のことに頭が真っ白になる。
「冗談で流そうとしても無駄だ。私は雫の夫なのだよ。君の不安はできる限りの取り除いてあげたい。一緒に悩んであげたい」
私に覆い被さる桜子の優しい言葉に、私の心が揺さぶられる。
このことだけは吐き出さないと決めたのに。
そんなに優しくされたら、何もかも吐き出したくなってしまうではないか。
「私は……」
言っちゃ駄目だ。
「私……は……」
言っちゃ……駄目なのに……!
「私は―」
どうしてこの口は勝手に開いてしまうの!?
「桜子がいなくなっちゃうのが寂しいよ……」
寝室に静寂が広がる。
言ってしまった……。
桜子の顔を見ることができない。
私の発言は、自分でお願いしたことを自分で止めて欲しいと言うような、子供じみたわがままだ。
桜子に軽蔑されてしまっても仕方がない。
私は桜子の口から軽蔑の言葉が出るのを待っていた。
しかし、桜子の口から出た言葉は意外なものだった。
「だから……がんばろう!」
「え……?」
私は、桜子の口から軽蔑か『それじゃあ、行くのを止めるよ』と夢を諦める言葉が出てくると思っていた。
たがら、その言葉を聞いたとき、本当に驚いた。
「私だって寂しいよ。でも、他でもない雫が私の背中を押してくれたから、私は頑張るって決めたんだ。雫だって私が行かないと言うのは嫌だろう?」
「それは……」
桜子が私のために自分の夢を諦めてしまうなんて、そんなの絶対に嫌だ。
「それは……それだけは嫌だ!」
「だから、ふたりで耐えて、頑張ろう。弱音を吐いたっていいんだ。雫がひとりで抱え込んで苦しむ姿を私は見たくないよ」
桜子が私のために頑張ってくれているのだから、私は弱音を吐いてはいけないと勝手に考えていた。
だから、桜子にも話せないでひとりで抱え込んでいたのだ。
「私って……弱いね……」
「人間みんな、弱いところの一つや二つはあるものだよ。だから、気にすることはないさ」
「桜子には無理を強いたくせに、いざ自分事になると挫けちゃうなんて……私は最低だよ……」
「自分事にならないと分からないこともあるよ。それよりも、雫が私のことをそれだけ大切に思ってくれていることが私は嬉しい」
「私は……私は……!」
私が自虐的な発言を繰り返していると、桜子が私の頬に触れた。
桜子の顔がすぐ目の前に近づく。
至近距離で見つめられると、心の奥底に語りかけられているようだ。
「あまり私の大好きな人の悪口を言わないでくれ」
「……」
「雫はどんな私でも受け入れてくれた。私だって、どんな君でも受け入れてあげたい。愛してあげたい」
「……」
「私の前ではいくら弱音を吐いてもいい。だから、弱音を吐いた後はふたりでがんばろう!きっと……いや、絶対にそれが私たちの幸せな未来に繋がはずだ!」
桜子はそう言って、私の隣に横になり、私の頭を自らの胸に抱き締めた。
桜子の身体が私を優しく包み込み、心と身体を暖めてくれる。
頭を撫でながら、何度も何度も優しく慰めてくれた。
涙が止まらない。
私はそのまま三十分近く泣いていたと思う。
たくさん泣いて、たくさん弱音を吐いて、ようやく私は落ち着いた。
「落ち着いたかい?」
「うん……ありがとう」
私がそう言うと、桜子は私の頭をもう一度優しく撫でた後、私の目を見て弱々しく微笑んだ。
「では……次は私の弱音も聞いてくれるかい?」
桜子はさっきまでの私の様に弱々しくそう言った。
結局寂しいのはお互い様ということか。
「もちろんだよ!だから、また明日も、遠い未来も、ふたりで一緒にがんばろうね!」




