(37) あの日の真実
とある温泉のサウナの中に女性がふたり。
そのふたりは年齢は違うものの、似た姿をしていた。
「それで、どうして話をするのがサウナの中なのか、説明してくれる?」
「そうね、どこから話せばいいのかしら……」
母親はうーんと悩むように目を閉じ、顎に手を当てた。
悩む仕草が私とそっくりで、この人が私の親なのだということを意識させられた。
私がそんなことを考えていると、隣の母親が重たい口を開けた。
「雫は私とお父さんのこと、どれくらい覚えている?」
「自分の親のことだよ。子供はいくら親のことが嫌いでも忘れられないものなんだよ」
「嫌い……。そうよね。雫と雪にあんなに苦しい生活を強いたのだから嫌われて当然だわ」
「それで?それがどうかしたの?」
「私がある時から、ふたりの生活にあまり関わらなくなったことを覚えている?」
たしかに、そんなこともあったかもしれない。
幼い私が食べ物を溢したとき、母親は何も片付けを手伝ってくれなかった。
お姉ちゃんが転んで怪我をした時も、お母さんは傍観しているだけだった。
基本的に私たちに何かするのは父親で、ある時から母親はほとんど関わってこなくなった。
でも―
「全く関わらないってわけじゃなくて、時々ごめんねって謝りながらちゃんと助けてくれたよね」
ごめんねと謝るくらいなら、最初から助けてくれればよかったのに。
私が言うのもなんだが、親というものはそういうものなのではないのだろうか。
「……ごめんね」
ほらまた。
謝るのなら、何に対してなのかをはっきりとさせて欲しい。
「それは何に対する謝罪なの?」
「……」
「言ってくれなきゃ分からないよ」
「……今までちゃんと話をしてあげられなくてごめんね」
「どうして私を避けてたの?」
「……お父さんに雫と会っちゃいけないって言われているの」
父親がそんなことを……?
なるほど。
ようやくこの人が、この場所で話したいと言った理由を理解した。
「お父さんに見られないように、ここで話したかったってことだよね?」
「……うん」
「私と話すとお父さんに怒られるの?」
「怒られるというよりは、諭されるというほうが近いのかもしれないわ。電話にも出ないでくれって言われて、履歴もチェックされてる」
だから、私からの電話に出なかったのか。
今まで無視されているのだと思っていたが、そんな事情があったなんて知らなかった。
でも、それは母親を許す理由にはならない。
「それで?どうしてお父さんは私とお母さんをそんなに接触させたくなかったの?」
私だって父親に嫌われているのかもとは以前から思っていた。
だから、可能な限り波風を立たせないように生きてきた。
それでも、私とお姉ちゃんはあの日捨てられた。
だから、何か理由があるのだろう。
私が考えを巡らせていると、母親が重たい口を開いた。
「雫と雪は……何も悪くないの……」
そんなの嘘だ。
だって―
「何も悪くないって……そんなわけないじゃん!」
何も理由がないのであれば、あの日、なぜ私たちは捨てられたのか?
なぜ、私とお姉ちゃんはあんなに苦しまなければならなかったのか?
「ねぇ!ちゃんと分かるように教えてよ!」
私の怒号がサウナに響いた。
叫んでからハッとする。
心配になり周りを見回したが、幸い温泉の中には誰もいなかった。
「ごめん、いきなり大きな声を出して」
「いや、いいの。私が回りくどい言い方をしたのが悪かったわ。ごめんなさい」
母親は自らの両手をギュッと握り締め、覚悟を決めたように話し始めた。
「これは雫がまだ小さいときの話よ」
こうして、真実を知るための記憶の旅が始まったのだった。
◇◇◇
私の幼い記憶の中にいる両親は、私の印象にあるふたりよりも優しかった。
『雫!良く頑張ったね!』
『お父さん!今日はお祝いにご飯を食べに行きましょう!』
私は手の掛かる子供だった。
身体が弱く、すぐ病気になり。
人付き合いが下手で、親のサポートがなければ人前にも出られなかった。
だから、私が体調を壊す度に親は仕事を休まなければならなくなり。
せっかくの休日に外に連れていってもらっても、私は笑顔を見せることができなかった。
でも、そんな私を見捨てずに両親は世話をしてくれた。
私の世話をする両親はきっと相当大変だったと思う。
私だってずっと大変なことが続けば限界がくる。
同じように、ある日、母親にも限界が来た。
『どうしてこんなに……こんなに!!』
母親が拳を握り締めて身体を震わす。
『雫ちゃんは頑張ってるの!だから……だから怒らないであげて!』
地面にへたり込んで泣く私に怒鳴る母親。
私の前で両手を広げて、泣きながら私のことを庇うお姉ちゃん。
それは悪夢のような光景だった。
『ねぇ、私の育て方が悪かったの?私の頑張りが足りなかったの……?』
そう言って、母親は部屋から飛び出していった。
本当に精神的に限界だったのだろう。
私は知らなかったが、母親は追い詰められて自らの命を絶とうとしたらしい。
しかし、それは父親の手によって阻止された。
両親が私とお姉ちゃんの扱いを変えたのはその日からだった。
『お母さん、これってどうすればいいのかな?』
私が母親に算数の問題について質問すると、父親が私の手から問題集を半ば強引に奪い取った。
『私が教えるよ。お母さんはゆっくりしていて』
私が母親に買い物に連れていって欲しいとねだると。
『それは本当に必要かい?お母さんも忙しいんだ。私が一緒に行くよ』
母親が返事をする前に父親が断った。
母親が申し訳なさそうに口を開く。
『お父さん、私は大丈夫だか……』
『駄目だ。君はゆっくりと休んでいてくれ』
『でも……』
こんな風に父親の前で、母親は何もさせてもらえなかった。
でも、背景を知れば、それは母親の負担を減らしてあげたいという父親の愛だったのだと分かった。
母親はもっと私たちと触れ合いたいと思っていたのだろう。
母親は父親がいないタイミングでは、私たちの勉強を見てくれたし、遊んでもくれた。
でも、その顔は笑っていなかった。
いや、笑えていなかった。
きっと、普段私たちと触れ合うことを禁じられていたことで、どう接すればいいのか分からなくなっていたのだと思う。
幼い私はあまりに無知だった。
母親と話そうとすると邪魔をするし、私たち姉妹に対する態度も冷たい父親のことを嫌い。
私たちに感情を見せてくれない母親のことを嫌った。
だから、両親が私たちを置いて出ていったあの日も、両親が一方的に悪いと決めつけていた。
当時の私は本当に本当に―
何も知らなかった
◇◇◇
母親から事の顛末を聞いた私は絶句した。
両親が私たちに対する接し方を変えた背景にそんなことがあったなんて知りもしなかった。
「私はてっきりお父さんにもお母さんにも嫌われているのだとばかり……」
「そう思われても仕方ないわ。お父さんは私に二度と辛い思いをさせないようにって雫たちを私から遠ざけた。それは親として絶対に間違った選択だったと私でも分かるわ。でも、お父さんを説得して、勇気を出してあなたたちの母親に戻れなかった私が一番間違っていたのよ……」
たしかに、親の行動としては間違っていたのかもしれない。
でも、問題の根本的な部分を見るとそれは―
「私がいなければ……お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも幸せだったってことだよね……?」
私がいなければ、良くできたお姉ちゃんだけがそこにはいて、両親も苦労しなかったはずだ。
そうすれば、お姉ちゃんももっと幸せな未来を……。
私の発言を聞いた母親の身体に力が入る。
「雫、それは違うわ!」
「違うって……違わないじゃん!だって、今の話を聞く限り、私がいなければ全て上手くいっていたはずでしょ!?」
私がもっとうまくできていれば未来は違ったのかもしれない。
いや、そもそも私が生まれていなければ……。
「お母さんは雫のことも雪のことも大切に思っていたわ。幸せに生きて欲しいって、そう思っていたの。全てはあなたたちに上手く接することのできなかった私たちの……親の責任なの!」
「……」
「お父さんに家から連れ出すと言われたとき、せめてもの償いだと思って、私の口座に入っているお金を下ろして置いていったの」
「……」
「これからのあなたたちにとって、全く足りない額だということは分かっていたわ。でも、あの時の私にできることはそれだけだったの。本当にごめんなさい」
止めてよ……。
「お父さんを説得してあなたたちの元へ戻るべきだった。あなたたちに苦しい思いをさせる必要なんて全くなかったの。ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
もう……いいよ。
私の両親は、私の想像していたような非情な人たちではなかった。
両親を苦しめて、勝手に嫌って、家族を壊したのは結局私だったのだ。
だからもう謝らないで欲しい。
悪いのは全部、私なんだから
「お母さん、私もう行くね……」
「待って!雫!」
「私のことは忘れていいから……だから、今度こそお父さんと幸せになってね……!」
私はそういって脱衣所へと早足に向かっていった。
身体を雑に拭き、服を着てエントランスに出る。
もう何も聞きたくない。
見たくない。
知りたくない。
だから、私は全てから逃げるように走った。
「痛い……」
私はそれ故に、目の前にいる人に気付かずにぶつかってしまった。
「すみません……!」
「……」
その人物は何も言わなかった。
けれど、その代わりに私を抱き締めた。
「……え?」
冷えきった心を癒してくれる暖かさ。
聞くだけで涙が出てきてしまいそうな大好きな声。
「雫が逃げ出したかったら私はそれを尊重する。君とどこまででも、いつまででも一緒に逃げ続けてあげるよ」
「桜子……」
「でも、今の雫は逃げたいって顔をしていない。きっと飛び出してきてしまったことを後悔しているのだろう?」
図星だった。
私は全てから逃げたくなって走ったが、母親から遠ざかるにつれて心残りは増えていった。
「私は……」
私が言葉を詰まらせていると、お母さんが私に追い付いた。
髪もびしょびしょで、身体も濡れたまま服を着たような状態だった。
きっと急いで追いかけて来てくれたのだろう。
「……あなたは雫のお友達?」
「友人……いえ、それよりは深い関係です」
桜子が私の手を握る。
桜子は私の手の指輪と自分の手の指輪をお母さんに見えるように掲げた。
「はじめましてお義母様。私は雫さんの婚約者の桜子と申します」
そう宣言した。
お母さんが驚いたように目を丸くする。
「婚約者……」
お母さんはそう呟いた後、ほっと胸を撫で下ろした。
「あなたが今日まで雫を守ってくれていたのね。本当にありがとう」
「どうして私にお礼を?」
「私たちが上手に与えてあげられなかった愛情を桜子さんは雫に与えてくれた。雫は私たちと離れたあの時から、目に見えて成長している。きっとあなたのおかげです」
桜子の手に力が入る。
けれど、悲しそうにする母親の顔を見るとその力が抜けた。
「様子を見るに、お義母様にも何か事情があったのでしょう。でも、それはそれとして、私は雫を傷つけたことは許せません」
「いくら償っても許されないことだということは理解しているわ。私はもう雫の母親には戻れない。私のしたことはそれだけ重たいことなの。でも……」
そこでお母さんは一呼吸置いて、私の目を見て言った。
「本当に身勝手な話だけれど、自分が生まれたことが悪かったなんて思わないで欲しい。雫が生まれてきてくれて、私もお父さんも、お姉ちゃんもみんな本当に本当に嬉しかったんだから」
本当に自分勝手なことばかり……。
私はこの人のことが大っ嫌いだ。
でも、今の言葉には母親としての愛情が間違いなく詰まっていた。
私が渇望していた家族の暖かさ。
それがそこにはあった。
だから―
「分かったよ、お母さん。親子として最後にもう一度だけちゃんと話をしよう」
私はそれに触れたいと思った。
思ってしまった。
きっと、私も母親も、もう二度と家族に戻ることなんてできないと思う。
でも、最後にもう一度だけしっかりと話をしたい。
「……ありがとう」
母親はそう言って涙を流した。
ちゃんと話をして、ちゃんとお別れをしよう。
母親の涙を見て、私はそう心に決めた。
こうして二度目の親子の対話が幕を開けたのだった。




