(33) 闇を照らす星
三日目の夜。
私はひとりで宿の外へと向かっていた。
「寒い……」
宿のエントランスの扉を開けた瞬間、私の身体が冬の潮風に吹かれ、引き締まる。
少しでも風が当たらない場所を探し、喫煙所横の像の裏で携帯電話を取り出した。
寒さで震える指先で電話番号を手入力し、ある連絡先へと電話をかける。
いつも通り相手は出ない。
「これ、本当に意味があるのかな?」
私は毎日、夜に大嫌いなあの人に電話を掛けている。
携帯の連絡先は、以前消してしまっていたが、自宅に連絡先の一覧が記されたメモがあったことで、またこうやって電話をかけることができた。
「まあ、一度もあの人が出たことないんだけどね」
半ばルーティーンの様に毎日掛けているが、本当に繋がる日は来るのだろうか。
もしかしたら、あの人の電話はもう使われていなくて、バッグの中で歌っているだけなのかもしれない。
「でも、やらないよりはやってた方がいいよね」
今日の私は諦めが悪く、二回目の電話をかけた。
私の携帯が音楽を奏でて、あの人との交信を試みる。
どうせ繋がらないだろうなと思いながらも、あの人の声がいきなり聞こえるかもしれないと、少しだけ期待しながら待っていた。
しかし、二十秒待っても繋がらない。
私が諦めて部屋に帰ろうとしたその時、乾燥した潮風に吹かれて、あの人の好きだったボサノバが聞こえてくる。
「あれ?この曲って……」
私が曲の聞こえてきた方を見ると、喫煙所の方にひとりの女性がいた。
女性はひとりでタバコを片手に、スマホの画面を見ている。
女性は周りを不安そうにキョロキョロと眺め、電話に出ようとしたが、そこで指を止めた。
「ごめんね……」
そんな声が風に乗って聞こえてくる。
数秒後、私の掛けた電話がいつものように応答なしで終了する。
目の前の光景と手の中の画面での出来事を照らし合わせると、考えうる答えは一つだけだ。
「うそ……でしょ……」
あの人との遭遇は本当に偶然だった。
ネットでたまたま見つけた宿に宿泊し、たまたまこの時間に、たまたまこの場所で電話をかけて、たまたま見つけた。
私は神様をあまり信じていなかったが、今だけは神様の存在を本当に感じた。
せっかくあの人見つけたのだ。
行かなければ。
「なん……で」
でも、私の足は動かない。
会いたかったはずなのに、なぜ?
緊張?
それともこれは……恐怖?
「甘えるな……」
私は自分の身体を縛るよくわからない感情を脇腹をつねることで薄れさせ、重い足を引きずりながら女性の方へと向かった。
お姉ちゃんや私と似た雰囲気の後ろ姿へ、喉の奥に溜めた空気を吐き出す。
「……お母さん?」
私の声を聞いた女性の身体が驚いたようにビクッと跳ねる。
慌てて女性が振り向く。
私と目があった瞬間、女性は目を丸くした。
「……雫?どうしてここに?」
やはり、そこにいたのは間違いなく私の母親だった。
私と姉の前からいなくなってから、少し髪が伸びただろうか。
しかし、それ以外は何も変わっていない。
私が夢の中で何度も憎悪した顔の片方が、そこにはいた。
「偶然ここに泊まりに来てたんだ」
「そっ、そうなのね……し」
「そんなことよりも、話があるんだけど?」
私は母親の言葉を遮ってそう言った。
このときの私は、きっと桜子に見せられないほど憎しみに歪んだ顔をしてしたと思う。
そう、それは私の表情を見た母親が怯えるほどに。
母親はさっきと同じように周りをキョロキョロと確認し、言った。
「ごめん、今は……」
こいつは何を言っているのだろうか?
さんざん対話を拒んできたくせに、こうして直接会ってもなお向き合おうとしないのか。
やっぱり、両親にも事情があったのかもしれないとほんの少しだけでも期待していた私が馬鹿だったのかもしれない。
「じゃあ、いつならいいの?」
「二日後の二十時に、向こうにある温泉のサウナの中でなら……」
「どうしてあなたなんかと温泉に入らないといけないわけ?」
「ごめん……でも、どうかお願い……」
そう言って、母親は走って宿の中へ帰っていった。
納得のいかないことが多すぎる偶然の遭遇だったが、成果はあった。
今はそれを喜ぶべきなのかもしれない。
でも、私の顔は笑っていなかった。
「本当に……」
許せない、その言葉を私は必死に飲み込んだ。
許すか許さないかは話をしたときに決めればいい。
その時は今じゃない。
「早く帰らなきゃ……」
私はエントランスの扉を開けて、宿の中へと戻った。
廊下を歩いて、私たちの部屋の前へと戻る。
私は手鏡を見て笑顔の練習をした。
桜子と出会って、せっかく自然に笑えるようになったのに、今はなかなか笑顔が出てこなかった。
でも、早く戻らないと桜子を心配させてしまう。
私は思いきって扉を開いた。
「ただいまー!」
「おかえり!外は寒かっただろう?星は見えたのかい?」
「全然見えなかった……」
言葉の通り、私には暗いものしか見えなかった。
暗くてドロリとした自分の中の闇。
それが、私の視界にへばりついている。
さっきまではキラキラしていたこの世界も、心なしか全て暗く見えた。
「それは残念だったね。でも、明日は星が綺麗に見える日なんだろう?明日に期待しよう!」
でも、にこにこと笑いながらそう言うあなたは、星のように輝いていて、美しかった。
私の闇に包まれた心を星のように優しく照らしてくれる。
「桜子がいてくれて本当によかった……」
「突然どうしたんだい?」
「……ううん!なんでもない!お昼に買ったお菓子食べてみよ!」
「そっ、そうだね!太らないように少しだけ食べようか!」
そうして、私と桜子は隣り合って座り、お菓子を食べ始めた。
声こそ頑張って明るくしているが、私は笑えているのだろうか。
私がそんなことを考えながら、お菓子のパッケージを開けていると、桜子が突然私を抱き締めた。
「もう……いきなりどうしたの?」
「雫、私は何があっても君の味方だからな」
「ありがとう……」
「だから、雫が何かを相談したいと思ったときは遠慮なく言ってくれ。君が人に相談することの大切さを私に教えてくれたんだ。私にも、たまには相談される側をさせてくれ」
「……うん」
無意識のうちに、私の瞳から暖かいものが流れた。
そうだった。
別に無理やり笑顔を作って隠す必要も最初からなかったのだ。
どんな相談でも聞いてくれるし、力になってくれる人が私にはいたのだ。
今の私はひとりじゃない。
だから、辛いことがあってもひとりで抱え込む必要はないのだ。
「桜子、私ね―」
相談する私の口許はきっと笑ってはいない。
でも、私の頬にはさっきまでのような張り付けた感情ではなく、本物の感情が出ていた。
やはり、桜子には敵わない。
桜子の前では私は何も隠せないし、隠そうとも思わない。
それが本当に本当に―
嬉しかった。




