第5話
暗い場所、狭い空間。
別にそういうのにトラウマがあるとかそういうことはない。
特段こういうのが落ち着くということもない。
ただ、無。
認知を切って、動作を切って、自分の中に閉じこもる。
そういう時間があっても別にいいと思う。
どうせやること大して無いし。
色んなものに対して意図的に愚鈍になってみても、案外気づくものには気が付くものである。
具体的には、聞こえてくる音が小さくなった。
それをスイッチに、いろいろなものを取り戻す。
暗闇の匂いがする。光の無い行き止まりが見える。
手足を伸ばせば壁に当たり、手探りでその空間から脱出する。
収納スペースの中から、見慣れた部屋の中へ。
顔まで全身黒づくめの人間が埋め尽くす、異様な状況の中へ。
「お疲れさまです」
俺が声をかけても、一人が一瞬こちらを見るだけで大した反応は帰ってこない。
彼らの手には袋やはたきや掃除機や、いろいろよく分からない掃除用具が握られていた。
黒い布は埃が良く目立つが、付着度合いは大したことがない。
それはつまり、この部屋が清潔に保たれていることを意味していた。
俺も人間なので出るもんは出る。
垢、抜け毛、触れた場所には皮脂が付くし、服を着るので埃も積もる。
目立つ範囲はそれなりに掃除しているつもりだが、常にピカピカかと言われるとそんなことは全くない。
なのでかどうか知らないが、こうして黒子の方々が定期的に掃除しにくる。
彼らが通った後は新居同然。埃を拭って姑ごっこをしようものなら逆にサッシが皮脂で汚れる始末だ。
おそらく、というかほぼ確実に俺をここに閉じ込めているあいつの差し金だが、これは普通にありがたい。
彼らは雇われて仕事をしているだけなので、あいつみたいに毛嫌いする必要も全くない。
掃除中は邪魔にならないよう収納スペースに引きこもっているのは、その感謝の一環なのだ。
伝わってるかどうかは知らないが。
「またよろしくお願いします」
社交辞令で彼らを見送って部屋に戻る。
彼らの出入りは物資補充も兼ねており、終わった後テーブルの上には色々と置いてある。
基本的には食品類、消耗品が不足しそうなら補充もあるし、最近は新しい参考書が届くようになった。
仕事とはいえ本当に様様である。
生鮮食品は早く冷蔵庫へ。レトルトや調味料は適切な場所に整理して保管。
そうして物資を捌いていると、いつもよりやや内容量が多いことに気が付いた。
砂糖、牛乳が多めに支給されており、使う予定の無い小麦粉まで入っていた。
天ぷらでも振るまえということなのかと思っていると、折りたたまれたメモの存在に気づく。
それを手に取り、何とはなしにその薄ピンクの紙を開いた。
『薄力粉200g、強力粉200g、バター240g、お塩10g』
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「───というわけで、お菓子を作りたいと思った次第なのです」
「んなまた面倒な……」
材料を支給された翌日、やって来たあいつはいそいそとエプロンを身に着けながらそう言った。
肩紐にフリルをあしらった程度のシンプルなものだが、こいつが着ると見ようによっては天使のコスプレに見えてこないこともない。
なんだか以前愛読していた漫画の続きが気になってきた。学生と天使が同居するラブコメのやつ。
でも読むにはこいつに頼まないといけないんだよな……。
「貴方様に召し上がって貰うものはお菓
子作りをしたいな、と」
「ああそうか突っ込まんぞ」
せっせと担いできた大きなカバンから、ガラスのボウルやホイッパーなど道具を取り出して並べていく。
他は木製品が多いのは雰囲気重視なのだろう。手入れの心配もいらないだろうし。
というか黒子の方々がいるのに、わざわざ自分で持ってくる必要はあったのだろうか。
「ところで、何を作るんだ?」
「クリームパイを作っていただこうと思います。私と一緒に」
「……ああ、そう」
「何か思うところでもありますか?」
「早く作るぞ」
やめろくねくねするな。何も言ってないだろ。
……
小麦粉、正確には薄力粉と強力粉の2種類を篩にかけボウルの中に入れていく。
隣では小さい手に小さい包丁を握った彼女が、取り出したバターを拙い手つきで切っていた。
「まさかパイ生地から手作りさせられるとは……」
「手間をかけた方がおいしく感じると言うではありませんか」
「まあ、そうかもしれんけど……。というか、なんで俺が粉振るいなんだ」
「不満でしたか?」
「いやどっちでもいいけど、普通は大人が刃物握るだろ」
「……」
「……急に黙るなよ怖いだろ」
「……いえ。はい、これを粉と混ぜ合わせてください」
なんだか口角がぷるぷるし始めたこいつを置いて、細切れのバターとブレンド小麦を練り合わせていく。
どうやって混ぜるのかと思ったが、こういう時はへらでもホイッパーでもなく薄い板を使うらしい。
さくさくと切るように混ぜている間に、計量カップに水をためた彼女がそれを差し出してきた。
「ほどよく混ざったらこれを混ぜてくださいね」
「変なもん入ってないだろうな」
「失敬な!ただの塩水ですよ」
「あぁそう悪い」
「全く、私を何だと思っているのですか」
「何してくるか予想できない化け物」
「ひどい」
ちょっと盛った。こいつが何か企んでるときはすごい分かりやすいから予想はできる。
塩水を加え、引き続き板で捏ねていく。
手持無沙汰になったあいつはカウンターの対面でにこにことこっちの様子を眺めていた。
何がそんなに楽しいんだ?
「終わったら手で纏めて、そこの袋に入れて冷蔵庫で冷やしてください」
「じゃあ手袋を……」
「用意してませんよ?」
「……わかったよ」
そぼろ状の生地を纏めると、パウチの袋に入れて密封する。
冷蔵庫に放り込んで手を洗うと、彼女がタオルを差し出してくる。
受け取って手を拭きながら、次の指示を仰いだ。
「2時間ほど寝かせます。その後は打ち粉をしながら形を整えていくことになりますね」
「……つまり」
「今からはお夕食の準備をお願いしますね♪」
「このヤロウ……」
時間帯はいつも通り、つまり夕食前だ。
それに作ったのはまだパイ生地だけ。クリームを作って詰めて焼くと、また同じくらい時間がかかるだろう。
そうなると食べられるのは次々回ということになる。デザートが欲しいんだったら物資に入れておけばいいのに。
どんだけクリームパイ食べたいんだこいつ。
……いや。そうじゃないな。
「一緒にすることに意味があるってか。面倒なお嬢様だ」
「ふふっ……。こうして少しずつ、貴方様の中に私が染み込んでいくのを感じるのは、本当に心地がいい……」
「理解度が上がっただけのことをこんなにキモく表現できるもんなんだな」
改めて冷蔵庫を漁ると、あらかじめ下ごしらえしてあるタイプの肉があった。
今日はこれで炒め物……いや、米が無いな……。
「ちなみに今日はお好み焼きの気分です♪」
「とことんチョイスがめんどくせえなぁ!……はあ、今更洗い物増えたところで誤差みたいなもんか」
渋々、俺は冷蔵庫から薄力粉の残りを取り出した。
カスタードに使う分は残るだろうか……。
……
「打ち粉が切れたら適宜足してくださいね。生地がまな板に張り付かないように」
「こ、こんな感じか……?」
「伸ばすときは生地が千切れないように。捏ねすぎると焼いた後の触感が損なわれてしまいますからね」
「クソ……面倒くせえな……」
「……そう。そうやってかき混ぜて、火が通りすぎないように、固まりすぎないようにしてください」
「……結局作業してるの俺ばっかりじゃねえか!」
「あら?」
噴気。
作業は二日目に突入したが、あいつが手を加えたのは材料を合わせてボウルに置いておくくらいのものだ。
こちとら手は痛いわ小麦粉が張り付いて気持ち悪いわ火加減に神経使わされるわで苦労し通しである。
「一緒に作業するんじゃねえのかよ」
「一緒に作業してますよ?」
「上から指示出すだけなのは一緒にとは言わねえのよ」
「そんな……、そんなところに見解の相違が有っただなんて……」
社員と一体になって~とか宣う社長かお前は。
社長と違って
「とはいえ、今の工程は複数人かけても効率が変わらないものばかりなので……」
「じゃあこれ代わってくれよ」
「こんな幼気な少女に火を使えと……?あら、凄いお顔」
無心でカスタードをかき混ぜているといい感じに固まったらしい。
鍋からボウルに移してバニラエッセンスを振り、最後に軽く合わせておく。
粗熱が取れたらそのまま使えるが、完成させるより先に寝る時間が来そうだ。
「では、焼き上がりはまた別の日になりますね」
「はぁ……ようやく終わるのか……」
「ふふっ、とっても、ええ、とっても楽しみですね……」
「そんなにクリームパイ好きなのか?」
「いえ、食べたことはありません」
「無いの?お前なんて世界中のあらゆるスイーツ網羅してても不思議じゃないのに」
「時間が無くて」
「辛」
子供の一番の利点なんて時間が有り余ってることだというのに、こいつはこの歳でその利点を捨てさせられているらしい。
流石に同情を禁じ得ないと思ったところで、その少ない余暇を縫ってすることが監禁した成人男性と戯れることなのかと思い直し、感情の行き場は無事にどこにも無くなった。
昼間に仕込んだ牛丼で夕食を済ませつつ、次回作業分の準備も終わらせておく。
風呂に入ってトレーニングして寝床に入るまで、ずっとあいつがそわそわし通しだったのは気になったが、当時の俺は大して気にも留めていなかった。
後から思い返せば、そりゃ楽しみにするだろうなと腑に落ちるのだが。




