第4話
「猫吸いという文化があるらしいですね」
「ありません今すぐ帰れ」
夕食後、様子のおかしい幼女が様子のおかしいことを言い出す。
猫吸い自体は珍しいことではない。友人にも愛好家がいた。
だがこの部屋には猫はいない。いるのは俺に対して異常な愛情を向ける幼女だけだ。
「なんでも猫の柔らかい毛並みに顔を埋めてその匂いを嗅ぐとのことで……。試してみませんか?」
「試さねえよ猫いねえのに」
「ほら、今もにゃんにゃん鳴いてます」
そう言うなり、彼女はすっくと席から立ちあがる。
合わせて俺も立ち上がり、ふらふらと近づいてくる小さな姿と同じ距離を保つ。
右にふらふら、左にふらふら、しばらくふらふらし合っているとむくれた彼女が抗議をしてきた。
「どうして吸わせてくれないのですか!」
「だれが好んで体臭を他人に嗅がせるんだよバカか!」
「ぐぬぬ……貴方様は私のお腹に顔を埋めたことがあるのに……」
「それを言ったらお前もしょっちゅう絡んでくるだろうが。どうせその時に嗅いでんだろ」
「頭に抱き着く機会は無かったので」
「よーし風呂入って来るかー」
「ま、まだ日課のトレーニングも終わってませんよね!?」
そういえばそうだった。
それに汗だくになったら流石にこいつも躊躇するだろう。
そうと決まればさっさと着替えよう。
というか、誰が猫だ。
………
「───で、なんでむしろお前が熱心に俺の頭を洗ってるんだ?」
「むーん……」
聞いちゃいない。
さっさと汗をかいて、さっさと風呂に入って、さっさとこいつが乱入してくるまではいつも通り。
違うのは、体を洗おうと座ったら頭にありったけのシャンプーをぶちまけられて熱心に頭皮マッサージをされているということだ。
かれこれ5分くらいはこうされている。そろそろ頭皮が無くなるぞ。
「そろそろ良くないか?洗いすぎるとハゲそうだ」
「……はいっ。じゃあ、流しますね」
そういうと、洗面器にたっぷり溜めた水がまた容赦なくぶちまけられる。
そんなんで泡が流れるはずもなく、何度も、何度も、俺は水の塊を頭で受け止める羽目になった。
間違いない。今日で頭皮の寿命が1年は縮んだ。
風呂から上がって体をふいた後、いつの間にか着替えを済ませていたこいつにまた丁寧に頭を乾かされている。
その上コンディショナーだかオイルだかよく分からんものを髪に馴染ませられたり、保湿だと言ってタオルを巻かれたり。
なんだか今日は頭に対して変なスイッチが入ってしまったらしい。
かれこれ10分くらい頭を弄繰り回された割には、匂い以外はいつもとさほど変わらないのがまた分からない。
「……で、満足したか?」
「きょ、今日は、このくらいに、しておいて、あげま……」
今日はゆっくり寝れそうだ。お互い。
………
この頭への執着は案外長持ちした。
具体的には1週間くらい。
元々こいつは毎日来るというわけではない。
だいたいは隔日。場合によっては3日4日来ないことだってある。
ちなみに期間が開くと、見ているこっちが気の毒になるくらいしおしおになっている。
ともかく、こいつは毎日くるわけではない。
だというのに、この一週間は毎日この部屋にやって来た。
最も、来る時間はいつもより遅かった。
トレーニングを終え、風呂に入って休もうという時を見計らったようにやって来るのだ。
まあ、多分実際何かしらで見張られているのだが。
それで風呂で俺の頭のケアをした後、さっさか帰っていくのだ。
途中で抱き着いてもこない。本当に頭を洗いに来るだけ。
ある種の妖怪だ。
「ぐったり……」
「口で言うやつは初めて見たな」
が、その妖怪生活も昨日で終わったようで、今日は従来通りの時間に来てこうして膝の上でだらけている。
日々忙しい中で、やはりこういった時間を捻出するのは大変らしい。
だからって、こいつの様子を聞いたりすることはしない。
娑婆に戻った後でこいつを思い出したくないからだ。
「吸い……」
「させんぞ」
「あう……」
行動力だけは褒めてやるが、だからってなんでも許すわけではない。
拒否できるもんなら拒否するのが基本スタンスだ。
風呂だって、扉に鍵がかかるなら毎回混浴する羽目になっていないのだ。
「……でも、果たして本当に拒否しきれますか?」
「今のへろへろなお前になんて風邪引いてたって負ける気がしねえな」
「私の管理下で風邪など引かせませんが」
「あっそう……」
もそもそと起き上がっては肩によじ登って来たので、こちらも立ち上がって振り払った。
だが彼女の表情は、まだどこか不敵さを残している。
「あれは、私の友人が開発している新型のシャンプーなんです」
「そうかい。顔の広いことだ」
「彼の娘さんは肌が弱く、市販のシャンプーでは頭皮に炎症が起こってしまうんです……」
「もしかしてこの話長い?」
その後、彼女は悲劇のヒロインを気取りながら、延々と使わされていたシャンプーに付いて語り続けた。
「……そのモニターを、私は任されたんです。いつの日か、娘さんのような悲しい思いをする女の子がいなくなるように、と……」
「……」
流石というかなんというか、語りは真に迫っていた。
当たり前のオシャレができない娘の悲しみ。
それをそばで見ていることしかできなかった父親。
だが、それでもできることを探した結果、昔の研究を一からやり直すことにしたのだ。
その後なんやかんやあってこの高級シャンプーができたそうな。
「……そんな大事なモンを、何の不調も無い俺の頭皮に惜しげもなくつぎ込んだのか?」
「貴方の体調はこちらで事細かに把握しているので、データが良質になるんですよ」
「猫じゃなくてモルモットだったか……」
「頭皮にいる常在菌の分布も分かりましたし」
「モルモットだってそんなの把握されることねえだろ!?」
俺の尊厳、モルモット以下。
知られたところでどうなるわけではないが、同意もなく取られていいデータでもないだろ。
「なのでその一環で、匂いや髪の柔らかさも記録しないといけないんですね」
「じゃあ寝てる間にやってくれ。抵抗しねえから」
「反応が見れないと寂しいじゃないですか」
「実験の建前どこ行った」
によによわきわきしながら迫って来る幼女を片手で押さえつける。
ここまでくるとゾンビみたいだ。
「それに、一週間丹念に清潔にして差し上げたんですよ。嗅がれて恥ずかしい匂いになるわけないではないですか」
「清潔云々の話でもねえのよ」
「じゃあどうしたら嗅がせてくれるんですか!!!」
「どうせ寝床潜り込むんだから寝てる間にしろっていってるんだよ!!!」
「隙ありっ」
「あっこの!」
手の力が緩んだ隙に小さな体は制止をすり抜け、背後に回り込んで俺の頭に飛びついた。
しかも手足でがっちり頭をホールドし、意地でも離れないという意思を感じる。
この状態を逆フェイスハガーと名付けることにする。
そんなくだらないことを考えている間にも、頭頂部からは下品ギリギリの鼻息が聞こえてくる。
滅茶苦茶頭が重たいが、かといって振り落とすと危ない。
妙な形で抵抗を封じているこの状態は、もしかして理にかなった体勢なのか…?
「ふー……すぅー……」
頭がくすぐったい。あと重い。
ふんふんと毛の間をかき分けるように鼻を動かし、徹底的に分泌された揮発成分を摂取しようと奮闘している。
夢中になりすぎて声も届かないようで、たっぷり数分は堪能されてしまった。
というか妙にひんやりしてきたけど、こいつまさか涎垂らしてないか?
…………
ようやくこいつが満足したのか頭の上から降りてきた、が、どうも様子がおかしい。
世間一般に照らし合わせての異常はいつものことなので、普段の様子とは違うという意味での異常だ。
どこか目が虚ろで、足取りもどこか覚束ない。あと涎はやっぱり垂らしてた。
「一週間丹念に育てた頭皮の香りはどうだ?」
「……これは、よくないですね」
「あっそう」
「酩酊性と中毒性が……たっ……」
「は?おい!」
体勢が崩れたところを抱き留めたが、確かにこれはヤバい。
緩く上がった口角の端から涎の泡がにじみ出て、体は細かく痙攣している。
そういう薬をキメた時の反応そのものだが、俺の頭は今どうなっているんだ?
「あへ、ふへへ……」
「さっきの話に出てきた父親、家の花壇とか調べた方がいいんじゃないか?」
翌日以降、彼女はしばらく部屋を訪れることは無く、次にやって来たのは最長記録更新の1か月後。
来た時の様子もしおしおというよりは精魂尽き果てといった感じだった。
まるで離脱症状を耐えきった薬物依存症患者のように……。
……もしかして、マジで麻薬と同じ扱いされてるのか?




