第3話
今日はダメな日だ。
ダメな日はダメになっているに限る。
ノートを閉じてペンを置き、とりあえず一回無意味にベッドへ頭突きをかましておく。
だからって別に眠いわけではない。特に体力を使っていないのに寝るのは逆に体力を使う。
体を起こして机の上のコップを取り、冷めた中身を飲み干した。
仕事をしていたころはそもそもこんなことを考えている時間は無かった。
コンディションが泥と灰を混ぜたような状態でもすべきことはしなければならない。
だが、今自分に許されている暇つぶしは勉強のみ。しかも特に使う予定のない資格の。
なら身が入らない状態で無理に続ける意味も無い。気力もない。
何かに吸い込まれるように廊下へ出て、スリッパを履き、扉に手をかけた。
気分転換と言えば散歩だ。
元手無しででほどよく時間が潰せ、運動不足の現代では健康的という付加価値も付く。
天気の良い日に空気を胸いっぱい吸い込むのは無論気分がいいし、雨の日は恰好を工夫すれば実はそれほど悪くない。
だから扉を開ける瞬間の俺の気分はもっと上がっているはずだ。
でもそうじゃない。
なぜなら───
ここはあの幼女が用意した施設で、部屋の扉が別に外に繋がっているわけじゃないからだ。
橙の間接照明で穏やかな雰囲気が模られている横長の空間。
壁紙が貼られ、絨毯が敷かれた豪勢な仕様はさながらホテルか高級マンションさながらといった感想を抱くだろう。
だがもう一度見渡せば、それなりに異様な空間であることに気づけるだろう。
まず窓が無い。こういう廊下の少なくとも片方にはあるイメージだが、どちらを見渡しても無いとなると途端に閉塞的な印象が強くなる。
そしてドアも無い。……いや、この表現は正確ではない。
正確には、ある。目の前に。一つだけ。
両開きで取っ手のやたら大きい、メインホールだとか体育館だとかに使われるような巨大な扉が。
最も扉にはやたら仰々しい鎖とこれでもかというくらいわざとらしい錠前が付いているのだが。
それでも特に意味なくがちゃがちゃと扉を揺らさずにはいられない。
それくらい今の自分には刺激というものが足りていない。
この息の詰まりそうな廊下の風景もとっくに見飽きたものだが、それでも起きてから寝るまで同じ景色の部屋よりはマシなのだ。
「外出てぇ~……」
誰にも届かない呟きが絨毯に吸い込まれる。
やたら光を反射するあのビルの並ぶ街並みが恋しい。
虫が飛び回ることにさえ目を瞑れば景色の良い自然が恋しい。
くだらない情報に溢れた社会が恋しい。
意義の分からない仕事に溢れていた会社が恋しい。
無くしてみればなんだって価値が高く見えるものだとつくづく痛感する。
そしてこの場合、もっとも価値が低いのは……
「今日はお外でお出迎えなんですか?」
「……どう見たって出迎える格好じゃないだろ」
頼まなくたってやってくる、この笑顔の似合うこんちくしょうかもしれない。
「残念ながら、まだ外に出すことはできないんですよ」
「なんだ?外はウイルスだか放射線高に汚染されて死の大地になってんのか?」
「いえ。外に飢えた貴方をどこにデートへ連れ出せば、一番好感度が上がるのか検討中でして」
「どこでもいいから。マジで」
「たとえ夫婦の間柄でも信用してはいけない言葉の一つですね」
「やかましい」
今日は白のワンピースに麦わら帽、しかも肩掛けのポーチまで備えた実にクラシックな恰好だ。
さながら夏真っ盛りだが、この空も見えす空調もバリバリに利いた空間では夏も冬もクソもない。
ちなみにカレンダー的にはまだ6月とのこと。
「お勉強はお休みですか?」
「お休みだよ。もうテキスト何週したか覚えてねえ」
「困りましたね。試験日は2か月も後なのですが」
「じゃあ、追加の本なり何かあるだろ。このままだと退屈で死ぬぞ」
「まだ検閲が終わっていないので……」
「現代日本とは思えんな……」
まあそもそも拉致監禁で半年生活させられている状況が現代日本ではありえないのだが。
「だいたい検閲って何見てるんだ。参考書に思想が乗ってるのなんて歴史とかくらいだろ」
「いえ、単純に目を通す時間が作れなくて。すみません……」
「いやお前の時間は関係なくないか?」
「……? 検閲しているのは私ですが……」
「なんでだよ!?こんな施設持ってるくらいだからいくらでも人雇えるだろ!?」
「貴方と同じ本が読みたいのに他の人に読ませては意味が無いでしょう!」
「知らねえよこっち来たときに一緒に読めよ!!!」
なるほど!みたいな顔しやがって。このやろう。
そんなことで俺の娯楽は不当に削られていたのか……。
思わぬタイミングで死活問題が解決して力が抜け、取っ手を掴んだまま崩れ落ちた。
ついでに頬を当てる。革張りなので微妙な感触。
「……気になりますか?」
「なると言えばなるが別にそこまでって感じ」
「開けましょうか?」
「開くの?」
「はい」
そう言った彼女はいそいそとポーチを開け、中からこれまたいかにもと言った形の鍵を取り出した。
歯が二本しかない、現代だと遊園地でしか見ないようなやつ。
あっけに取られる俺を押しのけてこいつはその鍵を手にごん太の鎖を掴み、錠前にそれを突っ込む。
大きな音を立てて鍵が回ると大きな音を立てて錠前が外れ、拘束を失った鎖が垂れ落ちる。
そして彼女が取っ手を掴みその扉を開ける───
「ふんっ……」
「……」
開ける……
「……変わるよ」
「お、お願いします……」
ちなみにそれなりに重かった。
こいつくらいの年齢でも一応開けられそうな程度だったが。
で、正直期待はしていた。
久しぶりの新天地。実に半年ぶり。
退社途中で帰り道を変える程度の気分転換も無かった俺にとって、胸躍らせるなという方が無理だろう。
だが、その期待は斜め上に裏切られることになった。
「……」
「言葉も出ませんか」
「出ないというか……」
何もないというか……。
そう、扉の先には何も無い。
ただし滅茶苦茶広い。
見上げても天井は見えないし、そのくせ空間全体は眩しいくらいに明るい。
反対側の壁は辛うじて見えるが、それでも尋常じゃない広さ。
そのスケールの大きさに圧倒されるしかなかった。
「だから封をしていたのに、貴方様の好奇心ったら」
「いや……それにしたって広すぎるだろ……」
「これだけ広ければ色んなものを入れられるでしょう?」
「ビルでも入れるつもりか……?」
「ご名答です!流石ですね」
「ああ、うん……」
もうなんでもありだ。
一瞬で社会的身分を剥奪して、不当な身分拘束に対して法の干渉を許さず、半年間飼い殺した上でその戯れの為に建物を一つ二つ平気で作ってのける。
こいつの親の権力はもはや国家を超えている。
そんなやつが、一回会っただけの俺に執着する理由はなんだ?
知らぬうちに腰を抜かしていた俺を見下ろす笑顔がいつもより不気味に見える。
「そんなに大したことではないんですよ。クレーンを使って作るプラモデルのようなものなので」
「それが大したことない人間はお前と秀吉くらいだよ」
「ただ、まだ試作段階なので……。あと半年くらいでお披露目する予定だったんです」
「……一般にこの技術って降りたりするのか?」
「いずれは」
「そうか」
完全に趣味というわけでもなさそうだ。
おそらく10年後くらいにはプレハブで2階建ての事務所が作れるようになったりするんだろう。
そんな意味不明なことを考えているうちに気持ちも落ち着いてきたようで、俺は立ち上がって意味もなく尻を払った。
そのまま足を前に向けていると、慌てたような声が後ろから聞こえてきた。
「あ、あの。進んでもまだ何もありませんが……」
「別に。ただ一周してみようと思っただけだよ」
「……なら、ご一緒してもよろしいですか?」
「いいよ」
ぱっと顔が明るくなったかと思えば、当然のように片手を奪われる。
まあ、歩幅が狭くなるくらいは許してやろう。
どうせ時間は腐るほどあるんだ。
2人並んで歩いているが、当然ながら景色は1㎜も変わらない。
強いて言えば、入り口が遠ざかって反対の壁が近づいてくるくらいだ。
それでもなんだかワクワクするのはこの空間そのものがかなり非常識よりだからだろう。
なんというか、未来を感じる。
「ところで、ここにビルなんか建ててどうするつもなんだ?」
「うーん……。本来立てる予定だったのはビルではないんです」
「じゃあなんだ」
「ふっふっふ……」
なんだか得意な顔をして前へ躍り出る彼女。
手と足を思いっきり広げて言い放つ。
「ここに教会を立てます!」
「おっなんだ10年前のオタクみたいなこと言い始めたな」
「貴方様が女性でも私は一向に構いませんが……ああ、でもそれも素敵……」
「いやそれは分かるのかよ」
無駄にハイコンテクストなやり取りはさておき、言われてみると納得ではある。
あの仰々しい扉も新郎新婦入場を彩るにはうってつけだろう。
とすると、教会の本堂だけではなくその手前の庭園とかも再現するつもりなのか。
壁もスクリーンとかになってて、それっぽい風景とか投影するのだろう。
用途はともかくロマンのあることだ。
「要望などはありますか?」
「ここから出してほしい」
「教会に関する要望ですっ!」
「ねえよ……。というか、そもそもだな……」
「?」
「拉致監禁から結婚まで強要って、なんか人として最低のさらに下を行くというか……」
いくら相手が無法者とはいえ、幼女相手にここまで言うのは流石に気が引ける。
が、常識を知らないなら誰かが教えてやらねばならない。
案の定、世界の終わりを目の当たりにしたような顔で固まっている。
「きょっ、強要なんていたしません!あくまで!お互いの自由意志に基づく……!」
「その自由意志ガッチガチに拘束しておいてどの口がって感じ」
「うっ、うううう……」
かわいいは正義だし美少女無罪だが、流石に限度というものがある。
実際好かれてること自体に悪感情は無い。別の部分のノイズがデカすぎるだけだ。
「ぜ……」
「ぜ?」
「絶対に!!貴方の自由意志の下で!!私と深い中になることを認めさせて見せますっ!!見せますからね!!?」
「おーう頑張れ」
奮起しているあいつを他所に歩き出す。
我ながら生殺与奪を握られてる分際で生意気だと思うが、どの道心変わりされたら破滅なのは変わりがない。
心を殺して媚びながら生きるより、自分を貫いて死ぬ方がマシだと思っている。
最も、死を目前にして貫けるかまでは自信が無いが。
慌てて追い付いてきたあいつにまた片手を取られ、もうすぐ反対の壁に到達する。
帰ったら何を食べようか。