第2話
目が覚める。
一人布団から起きる。
鳥の泣き声なんかしない。
ぞっとするほど静かな朝にも、もう慣れてしまった。
昨日あれだけの死闘を制したが、その痕跡は既に影も形も無い。
本人は言うまでもなく、食事後の食器も、髪の毛一本すらも。
時間にして夕方ごろにやってきては、寝るまで遊んで、いつの間にか帰っている。
これがあいつが来る日のスケジュール。例外もそれなりにあるが。
布団に入るのが23時ごろ。そのまますんなり眠れるわけもなく、就寝は日付を跨いでいると思う。
その後こっそり起きて、布団を抜け出し、片づけをして、帰って、それで十分休んでいられるんだろうか?
「ふあ……」
だらしなくあくびをしたところで、『いいものが見れました♪』と言わんばかりの笑顔で挨拶をしてくるやつがいないというのは実に心安らかである。
ちなみに経験はある。
簡単な朝食を作って、顔を洗って、歯を磨く。
寝間着から部屋着に着替えて、食器を片付ける。
仕事をしていたころからの朝の習慣は、今でも維持している。
万一外に出られた時、カスみたいな生活習慣に苦しむのを防ぐだけじゃない。
こんな何もない部屋で自己を維持するためには『習慣』が必要だった。
ぴーんぽーん
……と、いうわけで。
不本意ながら、あいつのいない時間というのは実に過ぎるのが早い。
さっきまで朝だったはずなのに、いつの間にか夕方だ。
一日の半分以上がほぼ虚無。辛うじて資格の勉強で時間を潰しているが、それも特にやりがいがあるわけではない。
ちなむと資格はちゃんと取らせてくれるとのこと。もしかすると外に出られるかもしれない。
今はそれだけを頼りに、この空白の部屋を生きている。
「ただいま戻りました」
「おかえ、り?」
オーバーオールとジャンパースカートの合いの子みたいな元気な印象のワンピース、の手前。
紙袋。なんか持ってる。
口を挟む隙を与えずにずかずかと入ってくる様子を見るに、おそらく後で盛大に披露するつもりなんだろう。
どことなく口角も上がってるような気がする。違うな今振り向いて鼻で笑いやがった。どこからくるんだあの自信。
まあ、大きさ的に大したものではないだろうし、わざとらしいリアクションも無意味だから考えるだけ無駄か。
今日の夕食は昨日の残りをグラタン風に仕上げたやつだ。
……
「どうぞ」
「何これ」
「ビーズクッションです」
「ただのお手玉だろ」
鼻息荒く差し出してきたから何かと思えば、手のひらに収まるクッションが二つ。
普通ビーズクッションって言ったらいわゆる『人をダメにするソファ』とかそういうサイズじゃないのか。
渡されるまま手の中で弄んでみるが、まあ、柔らかいですねとしか言えない。
「やけに自信あるから何かと思えば……」
「まあ、この状態ではただのお手玉と言われてもしかたありませんね」
「この状態も何もこれ以上の使い道なんかないだろ」
この期に及んで自信満々な表情が崩れないのは非常に不気味だ。
それに元気な印象の服装を掛け合わせるとうっとおしさがすごい。
手持無沙汰なところを面白くないお手玉でごまかしていると、すいとそれが奪い取られた。
柄にもなく構えなんかとっちゃって、今日は本当にテンション高いな。
「人間というのは不思議なものです」
「特にお前な」
「全く関係ないもの同士を、かすかな縁で繋いで全く異なる意味を付与する……。削っただけの石が天をも舞う軽やかさを得ることもあれば、ただの線の配列が数多の人を狂わす深淵となることもあります」
「それが芸術ってやつだな」
「ですから、ただのビーズクッションに見えるこれも……」
そう言いながら、彼女は胸元にクッションを……
おい嘘だろ中学生だってそんな───
「こうすることで、人の最もたわわな柔らかさの体現となることができるのです!!」
「アホ~~~~~~~~~~~」
わざわざ肩から吊るタイプの服を着てきた理由はそれか。多分裏側にポケットが縫い付けてあるんだろう。
そのおかげで胸元に、確かに目を見張る膨らみが二つくっついているように見える。見えるが。
貧乳コンプレックスを拗らせるタイプじゃないと思っていたが、こんなIQ3みたいな発想を大真面目でしてくるまで落ちぶれたのか……?
「どうです?」
「言葉もありません」
「そうでしょうね。殿方の8割は大きな胸がお好きだと調べは付いておりますので」
「呆れてるんだよ!!!」
きょとんとするな、きょとんと。
それに俺がもしものこり2割だったらどうするつもりだったんだ。
中には幼い少女に胸を盛ると耳から嘔吐して七孔墳血撒き死ぬような人類だって存在するのに。
しかし本当にクオリティは高い。普段のこいつを見慣れていてもまるで違和感が無い。
自信満々に胸を反らすとちゃんと胸骨の形に合わせて伸びるし、腕で寄せた分ちゃんとかさが増す。
どんだけ本気で作ってるんだよこれ。
「触ってもよろしいですよ……?」
しまいには流し目で誘惑なんて胸とはまるで関係ない要素までマスターしてやがる。
「普通の大人は『はいそうですか』とはならんのよ」
「どうしてですか?」
「いや常識で考えて人の胸を揉むのは───」
「───これは、ただのクッションですよ?」
鋭い一言。
それが決まり手の反論を一触の下切り捨てる。
「ドレスに素敵な宝石が嵌っていたら、あるいは視力の弱い方が胸元の名札を見ようとするとき、許しを得られたなら間近で拝見することも、なんなら触れることも許されるのではないでしょうか?」
「……いやそれでも女性の胸元に手を伸ばすのはマナー違反だな」
「……」
切り捨てられたと思ったら刀の方がバキバキに折れていました。
むしろよくその理屈で通ると思ったな。
悔しそうに口を結びながら胸を反らせて迫ってくるのは肩を押さえて食い止めつつ、次はどうするものかと考えていると、
突然手に乗ってる肩の重みが無くなった。
「あっ……」
「危なっ……」
と、何もないところで彼女が転ぶはずもなく。
わざと体制を崩したのだと気づいたころには反射的に彼女の体を受け止めていた。
なんというか、この演技力を実生活で活かせるならさぞ厄介な女になるだろうなぁ……。
そして、当然というか必然というか、もちろん俺の手には柔らかい感触が収まっている。
あれだけ警戒して、事前情報を仕入れてもなお、人肌のぬくもりを錯覚させる偽物の弾力が。
微妙な顔をする俺に対して、してやったりのどや顔は一周回って眩しく見えるだろう。
「……あたってますよ♪」
「あてさせられてんのよ。ほら早く起きろ」
「少しくらい手を動かしてもばちは当たりませんよ……」
「いいからとっとと起きろ。このまま落とすぞ」
「もう……」
しぶしぶ体を起こすと、またわざとらしく肩を揺すって偽乳の弾力をアピールする。
そんな揺らしてたら将来垂れるぞ。
「やはりというべきか、本当に貴方様は頑な……あら」
「そりゃそうだ。というかお前のアプローチが斜め上すぎるんだよ」
「その割には……」
「なんだよ」
「お手は、もう虜になってしまわれたようですが……♪」
「は?」
そう言われ、俺はさっき彼女の上半身を支えていた方の手を目の前に持ってくる。
五本の指を緩く立て、ちょうど茶碗でも持ってるかのような形の手。
それが無意識にわきわきと余韻のままに蠢いている。
「……」
「……どうぞ?」
「いらん!」
俺は意地でこぶしを握った。