8話 ブナの植林
稚魚の放流を終えた春の終わり、ヘイジは再び山へ向かった。
川が注ぎ込む湾の奥に広がる、かつての漁場。その背後には、削られた斜面と痩せた木々が広がっていた。
「この山が、生きていない」
潮見の翁が、静かに言った言葉が忘れられなかった。
昔は、この山にブナが茂っていた。秋には落葉が川に流れ込み、腐葉土になってプランクトンや昆虫の命を育て、それが鮭の稚魚を育んでいたという。
「川の水は、森が育てる。海の命も、山が支えている」
それを確かに理解したヘイジは、川の上流の山と、湾を囲む山に「魚つき林」となるブナを植えることを決意する。
そして、仲間たちと共に斜面を登り、一本一本、丁寧に苗を植えていった。
「なんでこんなところに木を植えるんだ?」と、最初は不思議がる者もいた。
だが、川の上流に木陰ができれば、夏の水温は安定し、藻の異常繁殖も防げる。葉が落ちれば、土を育て、微生物が増え、川の清らかさを守る。
なにより、豊かな山は、川を守り、やがて海へと命をつなげていく。
山の斜面で、子どもたちも一緒に小さなブナの苗木を植えていた。
「大きくなれよー!」
笑いながら声をかける子どもたちに、近くにいた年配の漁師が目を細めて言った。
「こうしてな、木も魚も、人の手をかけて育っていくんだ」
翁もまた、そっと土をかぶせた苗の根元に手を添えながら言った。
「この木が大きくなるころ、あの稚魚たちも、きっと帰ってくる」
ヘイジは、山から見下ろす海を見つめていた。
陽光にきらめく湾の水面の向こうに、まだ見ぬ未来の鮭たちの群れが見えるような気がした。
森が水を育て、水が魚を育てる。
そして、その魚が、また人々の暮らしと心を満たしていく。
一見地味な植林の作業も、この土地全体の再生の、大きな一手となっていくのだった。
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