6話 1年目、稚魚の放流
春の空気はまだ少し冷たく、川べりには風に揺れる若草の匂いが漂っていた。
川面を見下ろす斜面に人々が集まり、青い空と柔らかな陽射しの下、今日という日を待っていた。
養殖場で育てられた稚魚は、全長わずか8センチほど。透き通った小さな体に、きらきらと日差しが反射している。
「これが鮭……?」と、バケツを覗き込んだ小さな女の子が目を丸くする。
「まだ赤ちゃんだもんな。でもな、これが大きくなって、海を越えてまた戻ってくるんだぞ」と、横にいた祖父らしい男がにっこり笑った。
放流の準備が整うと、川辺に設けられた簡易の木道へ、一人、また一人と進んでいく。
バケツの中でふるえる小さな命を、両手で大切に抱えながら。
「がんばれよ……」「また帰ってくるんだぞ」
誰ともなく、そう声がかかる。
子どもたちは目を輝かせ、大人たちは少し照れくさそうに微笑む。その手はどれも真剣だった。
「3年、4年かかる。でも、必ず帰ってくる。帰ってこられる川を、俺たちが作ってるんだからな」
そう語ったのは、地元の漁師のひとりだった。かつて、網にかかった鮭を何千匹と運んでいた男だ。
その傍らで、ヘイジは静かに川を見つめていた。
手のひらから川へ放たれた稚魚が、流れに乗って泳ぎ出す。小さな背中に託された祈りは、言葉にはならない。
「……あいつらが帰ってきた時、この川はちゃんと迎えられるようにしておかないとな」
その一言に、誰かが「おうよ」と返し、別の誰かが「それまで元気でいなくちゃな」と笑った。
誰も強制されてはいない。ただ、そこにいるすべての人が、同じ方向を見ていた。
稚魚を放ち終えた後、川べりに残った子どもたちは、小さな手で水をすくいながら「帰ってこいよー!」と叫んだ。
その声は、まだ冷たい水面に反射して、遠く、空の向こうまで響いていくようだった。
* * *
春の川は、再び流れ出した希望を乗せていた。
それは鮭の命だけでなく、人々の絆と誇りも運び、未来へと続いていく最初の一歩だった。
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