5話 鮭が還る川をつくる、その一歩
潮見の翁の小屋の縁側で、ヘイジは風に吹かれながら地図を広げていた。
サール川上流から河口まで、いくつもの支流と旧水路の線が、古地図のように刻まれている。
「……戻すには、時間がかかる」
翁は、湯飲みを手にしながら静かに言った。
「だが、まず“川を記憶させる”必要がある。稚魚を、ここで生ませ、育てるんだ。
川の匂い、水の成分、土の味……それを身にしみこませた稚魚なら、やがてこの川に戻ってくる」
「養殖か」
「そうだ。ただし、ただの箱に閉じ込めて育てるんじゃ意味がねぇ。
できる限り、自然に近い流れを作ってやることだ。浅瀬、石、せせらぎ……奴らは“流れ”の記憶で川を覚える」
ヘイジは静かにうなずいた。
「――やってみせます」
* * *
その日から、ヘイジは動き出した。
まず呼び寄せたのは、河川工事を共に成し遂げてきた、かつての仲間たちだった。
無骨な土木職人、測量士、役所の古い記録文書を整理する書記官、整備士、さらには元猟師だった男まで。
「また変なこと始めるんですかい、旦那」と笑ったのは、用水路担当だったイオ。
「面白そうだ。鮭が戻れば、漁も観光も変わるぜ」と声を上げたのは、石工のリーダーだったガイル。
かつての信頼と絆が、再び結集していく。
* * *
急ピッチで養殖場を整備し、少ないながらも稚魚の生育を開始した
雪解け水が川の音を高くし、緩やかに澱んだ冬の気配を洗い流していく時期。
サール川の河口近く、海と川の境界線にあたるその一帯は、かつて鮭の大群で水面が泡立つような光景が見られたという。
「昔はな、あそこいら一面が銀色になったもんよ」
海を指差しながら、老漁師が笑った。
「海の栄養をたんまり溜めた鮭がな、群れになって戻ってくる。熊が川っぺりで待っててな、オオワシが空から舞い降りてきて……まるで戦だ」
かつての光景を思い浮かべながら、ヘイジたちは準備を進めた。
稚魚を育てる池は、単なる人工の箱ではない。できる限り自然に近い形を目指した。
石を敷き、流れを分岐させ、水温を一定に保つための伏流水も引き込む。
一部には浅瀬を設け、川底には藻を植え、川虫がすみつくよう細工した。
「この川を思い出せるように。育った流れを、体に刻ませるために」
潮見の翁の助言は、まるで儀式のように皆の手を動かした。
* * *
だが、ヘイジにはもう一つの目的があった。
それは、“川に命を戻すこと”だった。
かつて、鮭が遡上していたころ、この地域の生態系は今とは比べものにならないほど豊かだった。
産卵を終えた鮭、それが川の命を支えていたのだ。
「腐るなんてとんでもない。あれが土になる。山に、川に、命を返すんだ」
翁がそう語った言葉が、ヘイジの胸に残っていた。
熊やオオワシが命を奪い、キツネやカラスが食い散らかし、残った身は虫や微生物の糧となる。
それが土へと帰り、山を潤し、川虫を育て、小魚を育て、やがてそれが――また鮭を育てる。
「……この川は、鮭だけじゃない。全部で成り立ってるんだ」
稚魚を育てる養殖池の整備が進む一方で、ヘイジは川そのものの環境改善にも目を向け始めていた。
「この川は、“水を流すための溝”じゃない。命が帰ってくる場所なんだ」
かつて治水事業の一環で行われた直線的な新水路の建設は、確かに洪水の危険を大きく減らした。
大雨のたびに氾濫していた川は穏やかになり、周辺には農地が広がり、住宅も建ち、人々の暮らしは安定した。
それは、ヘイジ自身も携わった治水事業の成果だった。
だが、その整備の陰で、川から命の気配が少しずつ消えていった。
川がまっすぐにされ、岸が石塊で固められ、深く速い流れだけが残った水路。
そこに、鮭の産卵に適した“変化”はほとんど残されていなかった。
「自然の川は、ただの曲がりくねった道じゃないんだな……」
翁がある日そう言った。
水の緩やかな“よどみ”、日陰をつくる倒木、魚が身をひそめる小さな石の陰。
流れがぶつかって渦巻く場所、水深の浅い瀬、深く掘られた淵、枝分かれする流れ――
それら全てが、命の居場所になっていた。
* * *
ヘイジは、旧来の水路を使いながらも、川の“多様性”を取り戻す工事に乗り出す決意をする。
激しい流れの一部を分水し、旧河川の蛇行部を復元。浅瀬を復元し、岸辺には湿地帯の再生を図った。
流速を弱めるために、岩を組み合わせて流れを“くねらせ”、その合間には中洲を設け、鳥や小動物の休憩地にもなるように設計した。
「ここの石はあえて崩れやすいようにしとけ。稚魚が身を隠せる場所になる」
かつて土木現場で培った知識を応用し、人工と自然の調和を図る作業だった。
石塊で直流にするだけでなく、自然素材と構造力学を組み合わせ、“安全かつ自然に近い”川づくりを目指した。
* * *
さらに、流域全体を見直すため、上流域では森林と湿地の保全にも着手する。
山が水を蓄え、少しずつ川へ流す働きがある以上、森林の健康が川の命に直結するからだ。
地元の林業者や、研究者とも連携を取り始めたヘイジにとって、もう土木だけでは語れない領域だった。
「俺たちは、川に道をつけ直すんじゃない。命に帰る道をつくってるんだ」
そう言った時、誰も笑わなかった。
むしろ、静かにうなずく者がいた。
* * *
自然と安全。
矛盾するようでいて、実はどちらも人の暮らしにとって必要なものである。
その両立を模索しながら、ヘイジたちは、鮭の命が帰れる川を、地道に、確かに作り直し始めていた。
作品を読んでいただき、ありがとうございます!
ページから離れるとき、
少し下にある「☆☆☆☆☆」をクリックして応援していただけると嬉しいです! 執筆の励みになります!