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4話 フィールドワーク2

夜明け前、海の気配はまだ静かだった。


波の音がかすかに響く中、ヘイジは港の南にそびえる岬を目指していた。

聞き取りの末に得た手がかり――「潮見の翁」は満潮前、月の引力が最も働く瞬間を狙って船を出すという。

その時間に合わせて、彼は小さな松明を頼りに崖の小道を登っていた。


ようやく辿り着いた崖の上には、潮風にさらされた古びた小屋が一軒あった。

板壁は塩で白くなり、屋根の草葺きはあちこち剥げていたが、それでも風雨に耐えて立っている。


そして、その前にひとりの老人が立っていた。

腰をわずかに曲げ、潮の匂いを含んだ海風を全身に受けながら、東の水平線をじっと見つめていた。


「……あなたが、潮見の翁ですか?」


ヘイジの声に、老人はゆっくりと首を向けた。

しわが深く刻まれた顔に、鋭くも優しげな眼差しが光った。


「誰だ、お前さんは」


「ナーク領の役人、アウトブ・ヘイジと申します。今は……鮭漁復興の任を受けております」


老人は短く鼻を鳴らした。


「鮭、ねぇ。もう十年も見とらんぞ、あの銀の魚は」


「それでも、あなたは漁に出ていると聞きました」


「……誰に聞いた?」


「酒場の噂話です。ですが、確かにあなたは今朝、船を出すのでしょう?」


翁は無言のまま、足元の網を丁寧にたたみ、道具箱を背負った。

その手の動きに迷いはなかった。年老いてなお、現役の漁師の風格があった。


「ついて来たけりゃ、黙って乗れ。ただし口を出すな。波は話を聞かねぇからな」


こうして、ヘイジは翁の小舟に乗せられた。

船はゆっくりと沖へ出る。夜明け前の海は、まるで黒い鏡のように静まり返っていた。


* * *


「……昔はな、山と海が話してたんだ」


そう切り出したのは、舟が湾の奥へ差し掛かったころだった。


「山の雪が春に溶けると、川は栄養を運んで海へ注いだ。海はそれを餌に、魚を育てて返してくれた。それが“還り鮭”ってやつさ。だがな、今は川が死んでる。上流にダムを造って、山の水がせき止められ、栄養は届かねぇ。石塊の堤で川は真っすぐになり、産卵床も失われた。人間が便利なように変えちまったんだ。自然が黙ってるわけがねぇ」


「……」


ヘイジは黙ってその言葉を聞いた。

自分が今まで行ってきた治水工事が、鮭の命の道を断っていた可能性に思い至り、胸が詰まった。


「だがな、希望がまるっきりないわけでもねぇ」


翁は海面をじっと見つめ、指をさした。


「ほれ、見てみろ」


目を凝らすと、黒々とした水面に、小さな波紋が広がっていた。

やがて――銀の閃きが、跳ねた。


「……鮭、か?」


「ああ、迷い鮭だ。どこかの川で生まれたが、帰る場所を失った連中が、こうして迷い込むことがある。多くの鮭は餌が豊富な海に出るが、時折こういう沿岸に居つく鮭がある。だがな、この場所を“覚えて”くれれば、二年後、三年後には仲間を連れて戻ってくる。鮭は、帰る川を“におい”で覚えるんだ。川の匂い、水の成分、山の気配……そういうものが混ざった“記憶”が、彼らの帰巣本能を刺激する」


「つまり……川を、戻せばいいと?」


「そうだ。水を“生きたもの”に戻せば、鮭は還ってくる。だがそれには、時間がかかる。人間が十年かけて壊したものは、十年かけてしか戻せねぇ。だが、最初の一歩は誰かが踏み出さなきゃならん。……お前さん、やる気はあるのか?」


ヘイジはその問いに、少しだけ笑みを浮かべて答えた。


「無茶振りには慣れています。……やってみせましょう。還る川を取り戻す――その一歩を」


朝日が昇った。

海が金色に染まり、小舟の周囲をいくつもの波紋が走っていた。


それは、失われた希望が、微かに再び息を吹き返した瞬間だった。


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