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3話 フィールドワーク1

工事現場の仮設小屋を片付け終えたころ、日がすっかり傾いていた。

ヘイジの任命が決まってから数日、彼がこれまで陣頭指揮を執ってきた治水工区では、驚きと戸惑いの声が飛び交った。

だが、彼がきっちりと全工程の引き継ぎを終えると、作業員たちの間には自然と、ある空気が生まれていた。


「ヘイジさん、あんたが抜けるなら、ちゃんと送り出さんとな」


そう言い出したのは、無口な石工のリーダー、ガイルだった。

口数の少ない男だが、いつも誰より早く現場に来て、黙々と石を運ぶ。そのガイルが頭を下げた時、ヘイジは眉をひそめた。


「宴なんてやめとけ。時間と酒がもったいない」


だが、その顔は――どこか、照れているようでもあった。


その夜、川辺の作業小屋に、樽酒と簡素な料理が並んだ。

冬の始まりで空気は冷たかったが、焚き火の熱と、仲間たちの声が辺りを温めていた。


「鮭か……次は魚屋に転職かよ、ヘイジ!」


「いや、あいつのことだから、川ごと掘り直して魚呼び戻すんじゃねえの?」


「ハッ、まずはオルド大臣の頭に氷ぶっかけて目ぇ覚まさせるほうが早いな!」


笑いが絶えない中で、ヘイジは杯を片手に、黙って皆の顔を見渡していた。

泥にまみれ、日焼けし、手の皮が厚くなった連中。

冬の吹雪の中、川に杭を打ち、堰を修復し、命がけで支え合ってきた仲間たち。

彼らの手があってこそ、サール川の激流は静まり、村が救われた。


ヘイジはゆっくり立ち上がると、酒樽の上に手を置いた。


「口下手だが……お前らのおかげで、いい仕事ができた。

オレは川を離れるが、いつでも呼べ。山だろうが海だろうが、土があるなら手を貸す」


その言葉に、一瞬の沈黙のあと、大きな拍手が起きた。

ガイルが黙って杯を差し出す。

若い作業員のひとりが、こっそり目元を拭いていた。


夜が更けても、焚き火の赤は揺れていた。

別れを惜しむように、雪がちらほらと降りはじめる。


その帰り道、ヘイジはふと立ち止まり、川の流れを見下ろした。

深く息を吐く。

冷たい空気が、肺の奥まで沁みた。


「次は……魚相手か。上等だ」


彼は背筋を伸ばすと、ゆっくりと夜道を歩き出した。

川のせせらぎが、いつもより少しだけ、遠くから聞こえる気がした。


* * *


鮭漁復興――無茶振りとしか言いようのない任命を受け、送別会の翌朝、ヘイジは手拭いを首に巻いて、海沿いの町に降り立った。

潮の香りが鼻を刺す。これまで川や山とともに生きてきた彼にとって、海はどこか馴染みのない、湿った世界だった。


まずは「現地の声を聞く」――彼が若き日に祖父から学んだ姿勢だった。


この港町では、鮭が“昔は”川を埋め尽くしていたという話を誰もがする。

だが、なぜあれほどの豊漁が続いたのか、その理由となると、誰ひとり言葉にできなかった。


「魚が寄ってきたんだよ。昔は海が生きてた」


「年に一度は川が銀色になるって言ってたな。今じゃ信じられねぇが」


「天の恵みってやつさ。人間にできることじゃねえ」


人々の話は、どこか懐古的で、靄がかかったようだった。

それでもヘイジは、町の魚問屋、干物屋、年寄りの漁師、川沿いの農夫、果ては神主にまで足を運び、根気よく話を聞いた。

だが収穫は乏しかった。共通しているのは「かつては良かった」という感傷だけだ。


そんなある晩のことだった。


日もとっぷり暮れ、港の裏通りにある古びた居酒屋で、ヘイジは酒をあおっていた。

聞き取りの名目で訪ねたが、今夜ばかりはほんの少し、自分の疲れを慰めたかった。


店の中は薄暗く、炉端の火がかすかに灯っていた。

焼き魚の香ばしい匂いが漂う中、酒に酔った地元の男たちが、声を潜めながらも熱心に話していた。


「……おい、知ってるか。あの翁、まだ船出してるらしいぞ」


「まさか。もう鮭なんていやしねぇのにか?」


「そうなんだよ。ほとんど網になんてかからねぇってのに、夜明け前から船を出してな。しかも毎回、ひとりだ」


「物好きにも程があるぜ。いや、もしかしたら……何か知ってんのかもな」


ヘイジの手が、盃の途中で止まった。


「翁? どこの人だ?」


思わず声をかけると、男たちは一瞬だけ言葉を止めた。

だが、顔を見るとすぐに事情を察したらしく、ひとりが酒を啜りながら答えた。


「ああ……“潮見の翁”って呼ばれてる。漁港の南、崖の上の小屋に住んでる変わり者さ。昔は沖の網元だったらしいが、今じゃすっかり隠居だ。

ただ、毎日、決まって船を出す。それも……潮の満ち引きを読んでるみたいに、妙なタイミングでな」


「妙なタイミング、とは?」


「他の漁師が帰港した後に出たり、夜の満潮前に出たりな。気まぐれって言えばそれまでだが……」


「……何かを狙ってるんだな」


ヘイジの眼が鋭くなった。


潮見の翁――その名に、かすかな確信が芽生えた。

他の誰もが諦めた“今”に、なおも鮭を探し続ける者。

ただの変わり者か、それとも、失われた何かの鍵を握っているのか。


その夜、ヘイジは宿に戻るとすぐに、翌朝の潮の満ち引きを調べ始めた。

翁が海に出るという時間帯を予測するためだ。


彼の中に、久々に高まるものがあった。


「やっと……手がかりかもしれねぇな」


潮風の向こうで、何かが、静かに動き始めていた。


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