2話 任命(大臣視点)
王都サイアムにそびえる、灰白の大理石で築かれた官庁塔。
その最上階――本省の執務室には、重厚な書棚と、地図で埋め尽くされた壁があった。
部屋の中心には、金縁の眼鏡をかけた壮年の男がひとり、机の上に肘をつきながら、ナーク領の古地図を眺めていた。
名は、オルド・グエンバルド。
王国の要職「国務大臣」であり、今や老練な策略家としてその名を轟かせる官吏の一人だった。
「……ナークの川から、鮭が消えて十年。そろそろ“奇跡”の種でも蒔いておかねばな」
彼の声は、静かで冷ややかだった。
ナークの鮭漁が崩壊した当時、中央は見て見ぬふりを決め込んでいた。
輸入品や養殖の進展もあり、わざわざ辺境の川に手を出す理由はなかったのだ。
だがここ数年、国内の鮭供給は不安定となり、他国との商交渉も滞る中、王宮の一部では「伝統的漁業の復権」を求める声が高まり始めていた。
その矛先が向かったのが――“かつて栄えた鮭の都”ナークだった。
「愚かだな。水産は地道で手間がかかる。十年も絶えた漁場に鮭が戻るはずもない」
オルドは、ぴしゃりと地図のナーク領を指で弾いた。
だが、次の瞬間には薄ら笑いを浮かべていた。
「ならば、“無理”をやらせればいい。人目を引き、失敗しても損はない。万一、何か芽が出れば……今度はこちらの功績だ」
思惑の果てに、彼が目をつけたのが、アウトブ・ヘイジだった。
建築と治水の現場出身。
祖父譲りの胆力を持ち、民からの信頼も厚い。
土木屋ではあるが、あのサール川の氾濫を2年で収めた手腕は、本省でも密かに評価されていた。
「無理難題を押し付けるには、ちょうどいい男だ。どうせ断られはしない。あの性格ならな」
報告書には、「現場経験豊富かつ領内統率力あり、河川構造への深い理解あり。外部折衝力も中庸以上」とあった。
だがそんなことは、どうでもよかった。
求めているのは、鮭の復興ではない。
「奇跡に向けて動いている」という“構図”だ。
失敗すれば、地方の無能と片付ければいい。
成功すれば、中央が成果を刈り取ればよい。
すべては計算のうち。
その中で、ナークの若き領主ヘイジには、ただ静かに無理を押しつけるだけでよかった。
彼は、書簡に自ら署名した。
――「ナーク領 鮭漁再興の件、指導責任者として、アウトブ家当主ヘイジを任ずる。速やかに対応せよ」。
「さあ……踊れ、小さな英雄よ」
オルド・グエンバルドは、窓の向こうに広がる王都の水路を見下ろしながら、静かに笑った。
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