1話 氾濫
「小さな綻びを放っておけば、やがて堤は決壊する。……それを俺は、骨の髄まで知っている」
かつて建築・土木の分野で名を馳せた堅実な実務家。
若き日に地方行政に任じられ、以来、どんな困難な案件にも逃げず、冷静に、着実に乗り越えてきた男。
ヘイジがその名を知られるようになったのは、まだ20代の頃。
急峻な山を背にし、広大な川が海へと流れ込むナーク領で、彼は河川管理の計画を立案し、限られた予算と短い工期の中で堤防と水門を整備し、冬季に備えた雪害対策まで網羅した。
職人たちは最初こそ若造を小馬鹿にしていたが、いつの間にか彼の指示に黙って従うようになった。彼の目は、誰よりも現場を見ていたからだ。
――だが、彼の“本当の始まり”はもっと前に遡る。
13歳で父を亡くし、アウトブ家の当主となった少年ヘイジに寄り添ったのは、かつて一代で家を興した祖父・ヴォルクであった。
役所の仕組みも知らぬ少年に祖父は徹底して教え込んだ。文書の読み方から予算の流れ、人の気質、そして「水の怖さ」を。
それを骨身に刻んだ事件がある。
それは、今でもヘイジが夢に見る、あの雨の季節だった。
梅雨はすでに三週間以上続いていた。山の斜面は水を含み、土はぬかるみ、川はいつもの倍近い濁流を轟かせていた。
領内を流れるナーク川も、流域のあちこちで警戒水位を超え、堰の継ぎ目から水が吹き出していた。
堤防は軋み、木製の水門は風に揺れながら、きしきしと呻くような音を立てていた。
「……この音はまずいな。金具の締め直しが間に合わなければ、いずれ堰が崩れるぞ」
祖父・ヴォルクが唸るように呟き、ヘイジも水門の状態を見上げた。
当時15歳、まだ青年とも呼べぬ細身の少年だったが、その瞳は既に一人前の職人のように鋭く、真剣だった。
だが――そのときだった。
「たすけてぇえええええ!!」
川の向こう岸から、甲高い悲鳴が響いた。
水門の管理小屋の脇、普段なら安全なはずの斜面に、小さな影が見えた。
「子供だ!子供が流されるぞ!」
足を滑らせたのだろう。地面に這いつくばるようにしながら、川岸の濡れた草を必死に掴んでいた。
その先は、荒れ狂う濁流。まともに流されれば、大人でも命はない。
だが、手から草は滑り、子供は流された。
「待て! お前は行くな!」
ヴォルクが叫んだ瞬間には、すでにヘイジの姿はなかった。
「……ヘイジィッ!」
泥を蹴り、水飛沫を上げて、少年は川へと飛び込んでいた。
雨が叩きつける中、冷たい川水が体に突き刺さる。目を開けても何も見えず、耳は流れの音で塞がれる。
それでも、かすかに聞こえた子供の泣き声を頼りに、彼は手を伸ばし、泳いだ。
いや――あれは泳ぎではなかった。必死に、ただ水を掻き、前へと進もうとする、命がけのあがきだった。
「つかまれ……!」
ヘイジは少年の腕を掴んだ。直後、水の塊がぶつかり、二人の体は弾かれるように流された。
渦に巻き込まれ、空と水が逆さまにひっくり返る。どちらが上かもわからない。
だが、幸運だった。流れの中、橋脚の脇に堆積していた流木の山に、二人は突き刺さるようにぶつかり、その場に引っかかった。
「くそっ……動けねえ……!」
少年は泣きじゃくり、ヘイジはその身体をかばいながら、片手で流木にしがみついていた。
寒さで指先の感覚は既に消えかけていた。
そのとき、彼の視界に、濁流の向こうから駆けてくる一人の男の姿が映った。
「ヘイジ! 離れるなよ!! 今、引き上げる!」
祖父だった。全身ずぶ濡れのまま、命綱を肩にかけ、川の中央へと身を投げ出した。
迷いなどなかった。ただ真っ直ぐに、二人のもとへ。
「じい……ちゃん……!」
ロープを腰に巻いた祖父・ヴォルクは、流木にしがみつくヘイジと少年のもとへたどり着いた。
その顔は、寒さにも雨にも怯まず、ただ冷静だった。だが、その瞳の奥には――覚悟が宿っていた。
「まずは子供だ……しっかり掴んでろよ」
祖父は少年の体にロープを括りつけ、岸へと手信号を送った。橋の上にいた男たちが一斉に引っ張る。
少年は、水を吐きながら、泣き声とともに引き上げられていった。
「次は……お前だ、ヘイジ」
「じいちゃん……!」
ヘイジは震えていた。寒さのせいだけじゃない。
川の流れの異変を、彼も肌で感じていた。
流木の束が、軋んだ。
わずかにだが、下流に向かってズズ……ッと動いた。
祖父の顔が険しくなる。
まるで、死神の足音を聞いた者のように。
「……ダメだ、持たん」
ヴォルクは一瞬、ヘイジを見つめた。その目に浮かんだのは――慈しみと、別れの色。
「ここまでか」
「なに言って……一緒に戻るんだろ!? まだいける、早くロープを!」
「聞け、ヘイジ。お前は……生きろ。必ず、強く生きろ。ナークにはお前が必要だ」
その声は、静かで、だが揺るぎない。
それが最期の命令であると、本能で悟ってしまった。
「嫌だ……じいちゃんっ、いやだああああっ!」
その叫びを断ち切るように、祖父は一歩踏み込んだ。
そして、ヘイジの体を両腕で抱え――まるで幼き日のように、軽々と。
「行け!」
全身の力を込めて、祖父は孫を放り投げた。
川の濁流に抗う、ただ一度の、魂の一投だった。
宙に舞ったヘイジは、まるで時が止まったかのように空を切り、
次の瞬間、橋の端に手を伸ばした男たちの腕に掴まれた。
「つかまった! 引けッ!」
怒号が飛ぶ。
ヘイジは無我夢中で引き上げられ、無傷ではなかったが、命を繋いだ。
だが――振り返った川の中。
流木が崩れた。
濁流はまるで、獣のように牙を剥き、祖父を抱えて呑み込んでいった。
「じいちゃん!!」
雨の音が、叫びを掻き消した。
* * *
ヘイジは、アウトブ家の当主となった。
子供らしい表情はなくなり、一足飛びに大人へとなろうとした。
「堤は小さな漏れから崩れる。人の心も、国も同じだ……だから見逃すな。絶対に、だ」
それが、ヘイジが胸に刻んだ言葉だった。
それ以来、ヘイジはどんな小さな事業も、決して妥協せず、全体を見ながら細部にまで目を配る“現場主義”の行政官として信頼を集めてきた。
冗談もあまり言わず、仏頂面で人付き合いは不器用だが――
「ヘイジがやるなら大丈夫だ」
今や、領内では誰もがそう口にする。
彼が手がけた橋は百年は持つと評され、農地整備、集落の再編、山道の安全化、すべてが堅実だった。
そして今――ナーク領南部を流れるサール川――その上流域の治水事業が、ようやく一段落した頃のことだった。
5年前、突如としてナークを襲った記録的な豪雨。
天を裂くような雷鳴とともに降り注いだ雨は、サール川の水位を急激に押し上げ、支流も含めて数ヶ所で堤防を決壊させた。
泥水は畑を飲み込み、村々を断ち、流された家屋の瓦礫は川面を埋め尽くし、まるで領の南半分が一晩で別の国になったようだった。
あの惨状を、誰よりも重く受け止めていたのがヘイジだった。
祖父を失い、救助後の傷の完治を待たず被災直後から彼は指揮を取り、数百人規模の土木隊を編成。
仮堤の建設から始まり、2年に渡って堰の再建した。そしてその後の3年間で、護岸の補強、山間部の砂防ダム整備に至るまで――
文字通り、寝食を惜しんで現場に立ち続けた。
地味で時間のかかる仕事の連続だったが、彼は決して焦らなかった。祖父ヴォルクの背中を思い出しながら、一つひとつ積み上げていったのだ。
そして今、ようやく……。
雨水を受け止め、静かに流れるサール川を前に、ヘイジは短く息を吐いていた。
この瞬間を迎えるのに、何人の労働と心血が注がれたか。誰よりも彼が知っていた。
だが――その安堵は、長くは続かなかった。
「……アウトブ家に、新たな任命です」
州都からの使者が持参した公文書には、信じがたい内容が記されていた。
――ナーク領、鮭漁再興の特命。責任者:アウトブ・ヘイジ。
「……は?」
思わず声に出たその疑問は、当然だった。
ヘイジは、土木と建築の家系だ。代々、堰を作り、橋を建て、道路を敷き、村を興してきた。
魚? 川の恵み? もちろん好きだが、鮭の生態や漁業の仕組みなど専門外もいいところ。
しかも、今やナーク川に鮭の姿はほとんどない。
漁民たちでさえ諦め、漁船は朽ちかけ、加工場の煙突は10年近く火を吹いていない。
「……それを、もう一度もとに戻せと?」
かつてナークの名を国中に知らしめた鮭。
その栄光を再び――などというのは、もはや理想というより伝説の再演だ。
王都の役人が夢想する、現場を知らぬ者の無茶振り。
けれども、ヘイジは書状を握りしめたまま、黙っていた。
その目には、わずかに、だが確かに「火」が灯っていた。
「……面白いじゃないか」
自嘲でも、あきらめでもない。
それは、彼がいつも何かを成し遂げようとするときに見せる表情だった。
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