一 帝星の落日
# 一 帝星の落日
アストラーレ帝都を覆う薄明の帳が、ゆっくりと星々の輝きに席を譲っていった。巨大な人工惑星の地表を埋め尽くす建造物群は、まるで銀河の渦を模したかのような同心円状の壮麗な景観を形作っていた。中心より放射状に伸びる大通りは、古の地球時代のローマを思わせる列柱が立ち並び、その柱頭には星辰をかたどった装飾が施されている。
帝都の中枢、星帝院の大円蓋の下では、重要な儀式の準備が進められていた。七百年に一度の伝統とされる星統大祭。銀河の果てより集まった貴族たちが、豪奢な衣装に身を包み、古式に則って着座していく。円蓋の内壁一面を覆う巨大なホログラムは、まるで本物の星空のように煌めきながら、アストラーレ帝国の版図を示していた。
「陛下の容態は?」
円蓋の控室で、帝国摂政のヴォルフガング・クローデルが、側近に尋ねた。その切れ長の瞳には、冷徹な打算の色が宿っていた。高齢のレイヴン・アストラーレ四世帝は、既に十年以上寝たきりの状態が続いている。帝国の実質的な支配者となった摂政は、その影響力を着実に固めてきた。
「変わりありません。御医局の報告では、もはや」
「そうか」
クローデルは僅かに頷いた。その表情からは、人工的に若返りを重ねた年齢を遥かに超える疲労の色が覗いていた。
大円蓋の中央、星帝の玉座に続く階段の下で、皇太子アレン・アストラーレは静かに目を閉じていた。二十八歳の青年は、まるで彫像のような端正な横顔を、古めかしい様式の椅子の背もたれに預けている。その姿は、帝国の公式記録に刻まれた初代皇帝の肖像を彷彿とさせた。
側近のイザーク・ラヴィが、音もなく歩み寄る。「御時間です」
アレンは静かに目を開いた。漆黒の瞳が、ゆっくりと虚空を見上げる。
「ラヴィ、私の母は、この場所で何を想っていたのだろうか」
「皇太子殿下」
「十五年前、彼女もまたこうして儀式の時を待っていた。そして、その直後に」
「・・・」
イザークは沈黙を守った。十五年前、皇太后暗殺事件の真相は、未だに明かされていない。その直後から始まった皇帝の衰弱。そして帝国の実権を掌握していった摂政クローデル。全ては、この場所から始まったのだ。
大円蓋の真上で、人工星が輝きを増す。儀式の開始を告げる天象である。アレンは立ち上がり、純白の軍服の襟を正した。
「行きましょう」
広大な円蓋の下、三千を超える高官たちが一斉に起立する。アレンが、ゆっくりと玉座への階段を上り始めた時、異変が起きた。
まず、人工重力が不規則な変動を始めた。続いて、円蓋を覆う星図が歪み、帝国の版図を示す光点が、まるで血のように赤く染まっていく。パニックが起き始めた群衆の中を、一人の青年が駆け込んでくる。
「殿下!」
帝統艦隊副官、キャスリエル・ヴォーンである。その表情に、ただならぬ緊張が走っている。
「辺境第三支部との通信が途絶えました。複数の未確認艦隊が、帝国領に侵入を」
その言葉が終わらないうちに、円蓋全体が轟音と共に振動を始めた。防衛システムの発動である。アレンは冷静に状況を把握する。これは偶然ではない。この神聖な儀式の場を狙った、誰かの周到な計画。そして、その目的は――。
「皇太子殿下、直ちに避難を」
クローデルが側近を従えて近づいてきた。その表情は、真摯な懸念の色に満ちている。完璧な執務者の仮面。しかし、アレンは見逃さなかった。摂政の左手が、わずかに震えているのを。
「摂政殿」アレンは静かに告げた。「まさか、これもまた、十五年前の再現劇になるとでも?」
クローデルの瞳が、一瞬だけ見開かれる。その刹那、円蓋の向こうで、轟音が鳴り響いた。
帝都防衛艦隊の主力、『星帝リヴァイアサン』が、まるで神々しい光芒のように、その巨体を現す。艦隊総司令官レオンハルト・シュタインベルクの威風堂々たる姿が、ブリッジに浮かび上がった。
「我が帝統艦隊は、皇太子殿下の御身を守るためにこそ存在する」
深い共鳴を持つ声が、円蓋内に響き渡る。「いかなる敵の謀略をも、決して通すことはない」
事態は、思いもよらぬ方向に進展し始めていた。クローデルは表情を変えることなく、しかし内心では苛立ちを隠せずにいた。かつて、自身の周到な計画の下で葬った皇太后。そして、長年の工作により骨抜きにしてきた皇帝。全ては帝位への階段を一歩一歩上るための布石だった。
しかし今、その前に立ちはだかる若き皇太子の瞳に、クローデルは見覚えのある光を見た。それは十五年前、皇太后の眼差しそのものだった。
アレンは、ゆっくりと階段を降り始める。純白の軍服が、星々の光を受けて輝いている。
「諸卿、我が帝国の歴史において、この星統大祭は常に大きな転換点となってきた」
その声は、確かな力を帯びていた。
「そして今宵も、また新たな時代の幕開けとなるだろう」
イザーク・ラヴィは、物憂げに微笑む。彼の手の中には、古い地球文明の装置を思わせる何かが、かすかに光を放っていた。全ては計画通りに進んでいる。彼方の辺境で蜂起したのは、アイリス・ノヴァ率いる自治連合軍。この動乱は、単なる序章に過ぎない。
真の戦いは、これから始まるのだ。
円蓋の星図は、まるで運命の糸を紡ぐかのように、ゆっくりとその形を変えていく。アストラーレ帝国の命運を握るのは、果たして誰なのか。それは、まだ誰にも分からない。
帝都の夜空に、不穏な雲が立ち昇り始めていた。それは、まるで千年に一度の嵐の予兆のように見えた。アレンは、母の最期の言葉を思い出していた。
「星々は永遠に輝き続ける。たとえ、それを見上げる者の心が、闇に沈もうとも」
重苦しい空気が、円蓋の下に充満していく。帝国の歴史に、新たな一章が加えられようとしていた。それは、誰もが予期せぬ物語の始まりになるはずだった。
そして、その物語は、既に動き出していたのである。