10.創憶
あなたへの期待を乗せた大歓声、大歓声、大歓声!
そして、にっくき対戦相手への罵倒と野次!
白亜の闘技場を思念の籠った熱と震動が包みこみます。
反して、あなたはからっぽです。
記憶の鍵が効かなかった? 本当は効果のない嘘の薬だった?
いいえ、薬がすでに効果を発揮しているのは、よおく分かります。
取るに足らない対戦相手のことや、彼らの悲鳴や苦悶の顔はどんどんと思い出されていくのに、ここに来る前の記憶がいっさい蘇る様子がないのでした。
「仕合開始だとさ。さっさと決着をつけるぞ。俺の流星突きを受けるがいい!」
エンゲルスは必殺技の名前を叫びながら突きを繰り出してきました。
竜の骨を削って作った穂先が迫り、あなたは身をよじってそれをかわします。
「おまえ、本当にその武器を扱えるんだろうな?」
あなたの竜骨の大剣は地面に突き刺されたままです。
あなたの手には何もありません。
あなたの過去は何もありません。
あるのは過去の敗北者たちの断末魔と怨念ばかりです。
「こわい……」
あなたはつぶやきます。
しかし観客たちは、あなたが丸腰でエンゲルスをバカにしているのだと思い、「一発くらいハンデをあげてやれ」だとか、「ビンタで倒そうぜ」だなんて勝手なことを言っています。
「震えているな小娘。おおかた、これまでの仕合は仕組まれたものだったのだろう。ケルメストの騎士たちを屠ったなどと、よくも大ぼらを吹いたものだ」
相手の男はため息をつくと、槍を高速で回転させ始めました。
あなたはそれを見上げて身を引きますが、素早く突き出された石突きをお腹に受けてしまいます。
大して痛くはありませんが、押されたのであとずさりをしてしまいました。
「よく見ればおまえは美しい。名声もある。家とカネの次はおまえを貰うことにしよう。ふたりならばこの町をものにするのも容易いだろう。この都市の力を俺のもとに置けば、世界すら狙える」
あなたの背中に冷凍魔術を受けたような怖気が走ります。
「あなたがわたしのご主人様になるってこと?」
「見くびってくれるな。俺は女をこき使って喜ぶ矮小な男ではない」
エンゲルスは「嫁にしてやろうと言っているのだ!」と、今度は穂先を向けて突きこみました。
ずぶり。あなたの竜骨の鎧の隙間に、深々と槍が沈みこみます。
鋭い痛みが肉をかき分け、異物に驚いた臓物がびくりと跳ね、腹の中で熱い血液が漏れ始めます。
「安心して敗れるがいい。俺は治療魔術が得意だからな」
あなたは痛みと恐怖におびえ、身をよじりました。
やいばをお腹に入れたまま胴をひねったので、中身はさらに傷つき思わず悲鳴をあげます。
あなたは崩れ落ち、焦点の合わない目で赤いものが広がっていくのを見つめます。
「本当にそれで終わりなのか?」
彼の声がよく聞こえます。いつの間にか、闘技場内は静まり返っていました。
「こ、こわい。ころさないで。アミカ、アミカたすけて……」
「正気を失ったか。そのままこうべを垂れていろ、頭を打って昏倒させる」
そのときです。誰かが言いました。
「調子乗んなバカ。どうせ演技だよ。おまえなんか俺でも勝てる雑魚だ」
エンゲルスは声のしたほうを睨みます。
「……あいつは確か、下級闘士のティンケスとかいったな」
「ティンケスの言う通りだ! 上級闘士は盛り上げ上手なんだよ! 闘士の掟で、雑魚でも対戦相手は大切に扱うようになってんだ!」
別の闘士らしき男も野次を飛ばします。
「ラプエラさまがんばってー! そんなうすのろ、やっつけてくださーいっ!」
こっちはネコづらボーイのシピスくんです。
轟々とさんざめく挑戦者への非難。
しかし、それは不意にぴたりと止みました。
あなたの肩口に焼けるような痛みが走ります。
頭を叩いて気絶させると言ったのに、話が違います。
次は腋のあたり、二の腕、次々とあなたの身体が突かれます。
あなたはそのたびに苦悶の息を漏らし、「痛い、痛いよ」とつぶやきました。
「盛り上がりたいのならいくらでも盛り上げてやろう。悪いが少々痛い思いをしてもらうぞ」
次の一撃は、あなたの腰の辺りを直撃しました。
そうです。あなたの秘密の鱗です。
そこは竜骨の鎧に守られているはずでしたが、槍は鎧を破ってあなたに入りこんできたのです。
あなたは激しく身をよじります。予想外の動きだったのか、エンゲルスの手から槍が離れます。あなたは身体に槍を突き立てられたまま転がり、柄が地面に当たって腹部に入りこんだやいばを動かしました。
「ぎゃあああ!」
痛い。嫌だ。死んじゃう。
いいえ、あなたは死にません。
あなたの肉体は、ニンゲンのように脆弱ではないからです。
血こそは多少失いましたが、最初に刺された傷はもう塞がっています。
背面の傷も徐々に治っていくでしょう。
このままでは脇腹は槍を咥えこんだまま治癒してしまうかもしれません。
そうなれば一生、竜の死骸の一部で作られたやいばが、あなたのお腹の中をことあるごとにぐちゃぐちゃにかき混ぜることになります。
「やだあ、やだよお」
あなたの意識が遠のいていきます。
気絶するのはお待ちなさい。もっと悪いことがありますよ。
このままでは、あなたは敗者になってしまいます。
そうなれば……どうなるか分かりますよね?
「たすけてアミカ、たすけてご主人様」
いいえ、ここは神聖な場です。ふたりはあなたを信じています。
だからあなたはひとりで立ち上がらなければなりません。
「でも、わたしはからっぽだから……」
あなたは勘違いをしています。
記憶というものは、過去というものはあいまいで、何かと強調されがちなものなのです。
楽しかったことは美しく彩られ、苦しかったことは苦労話に昇華され、なんでもないようなことは風にさらわれる砂粒のように消え去るのです。
ようく思い出すのです。あなたの物語を。
――わたしは。
――わたしは丸まって、硬い何かの中にいた。
――温かかったけど、寂しかった。早くその硬い何かから出たかった。
違うでしょう?
あなたは描かなくてはならないのです。
そこの勘違いしたニンゲンを殺し、死を退け、愛おしいアミカを取り戻すために必要な怒りを呼び戻すための物語を。
「ないよ、そんなの」
……いいでしょう。
今から十七年前、あなたはリュグナ帝国の中央部のとある政治家の邸宅、その地下室で生を受けました。
かび臭い地下室が産褥だったのには理由があります。
あなたがみっつの禁を犯して実ったいのちだったからです。
ひとつ、あなたの父親はニンゲンで、母親は竜人だったこと。
ふたつ、リュグナでは竜人種の奴隷化が禁止だったこと。
もうひとつは、あなたの父親が妻帯者だったことです。
竜人とニンゲンがまぐわっても、生まれるのは知恵を持たないバケモノです。
ですが、本来ならいびつになるはずだったあなたの肉体と精神は、幸か不幸か、ある一点を除いて美しい形を保ったままこの世に誕生しました。
代わりにゆがんだのは、あなたの父親の妻のこころです。
リュグナは他の多くの文化と同様に、女よりも男の力と権利が勝ります。
あなたの義母は涙と怒りを蓄えながらも、あなたを自分が産んだ子として育てる宿命を負います。
本当の母親は残念ながらあなたを産み落とすさいに死亡しましたが、父親はそのぶんたっぷりの金貨と愛情を持って可愛がってくれました。
黄金と白金の髪をとかしてやり、花のようなドレスをあてがい、スープに虫を入れた召使いを追放し、あとはそうですね、武術や楽器の習い事なんかも望むままにさせてくれた、というのはどうでしょうか?
もちろん、あなたにはそれに応えるだけの知能や才能が満ち溢れています!
ああそうそう、虫を許さないのは食事だけでなく、汚らしい男に指一本も触れさせないのも忘れずに。
花よ蝶よ竜よと育てられたあなたは、年頃になりました。
あなたの未来は明るい。
その美貌とお父様の力があれば、何もかもをほしいままにできるでしょう。
ところが残念! お父様は死んでしまいました!
政敵に暗殺されたか、敵対国のスパイか何かか……まあそんなところです。
これに喜んだのはあなたのお義母様!
あなたは殴られ、蹴られ、罵られて糞便を塗りたくられ、うっかりナイフやフォークを突きさされます。
それでもあなたは、世間では父を失った可哀想な娘として認識されています。
いくら意地悪な義母でも、あなたの出生の秘密がおおやけになれば、お家の没落が避けられないことを知っていたからです。
言い出せないぶんは、あなたのこころや身体に凶器を振りかざすことで発散されます。
可哀想……。ああ、可哀想ですねえ!
あなたのこころとからだは、あっというまにぼろぼろです。
しかし、どうしたことでしょう!
あなたに流れる竜の血が、あなたを死に追いやることを許さないのです。
腹を殴っても、髪をすべて引き抜いても、目玉をえぐり乳房を切り落としても、焼けた鉄の棒を膣に突き刺しても、あなたは元通りになるのです。
バケモノめ! お義母様が言います。
もともと不細工だった顔が、さらに醜くゆがみます。
あなたのことが、本当に恐ろしくなったのです。
そういうわけで、いよいよあなたは国を追い出されることとなりました。
向かう先は自由と中立の楽園、ドラクゥテロ。
そこであなたは優しいご主人様に拾われ、愛おしいアミカと出逢い、本当の幸福に満たされます。
ですが今、ようやく取り戻したしあわせが、再び奪われようとしているのです。
「おい、槍を返してくれ。大丈夫か? 突き刺したまま転がるなんて、こんなの演技のはずがないだろう」
あなたは脇腹に突き刺さった槍に手を掛けました。
ぬるりと糸を引いてそれは抜けました。
「演技、ではないよな?」
彼は槍を取り返そうと柄を握ります。
槍が抜けたそばから、あなたの傷が塞がります。
魔導の気配もなく、薬にしては効きがよすぎる速度で。
ほら、この男の表情。
あなたの身体に恐れをなしたお義母様に似ていると思いませんか?
「死んでちょうだい」
あなたは立ち上がります。
エンゲルスを蹴飛ばすと、彼は壁に背中から叩きつけられ、土煙の中に消えました。
あなたは竜の力で不死身で無敵なのです。
そういえば、あそこにいる男も不死身でしたね。
……ちょっと待ってください!
リュグナからやってきてあなたを狙う、不死身の男ですって!?
ひょっとしたらお義母様からの追っ手かもしれませんよ!
あなたは壁際まで駆け、男の胸倉をつかむと会場の中心めがけて高く放り投げました。
エンゲルスを見上げる観客たちが歓声をあげます。
あなたは足元に落ちていた竜骨の槍を拾うとそれを振りかぶって投げ、宙に浮いた男の腹を貫きます。
地面に叩きつけられて血の池を作るエンゲルス。
しかしその身体を魔力の光が包んだかと思うと、彼は身を起こし、腹を押さえながらこちらを睨みました。
すぐに彼の顔は引きつります。
美形の顔が恐怖にゆがむのは案外悪くありません。
あなたすでに彼へと接近し、巨大なつるぎを片手で引き抜き、振り上げています。
「次は肩」
彼の肩口に野太いやいばが食いこみました。
骨が砕ける音が、あなたの身体によく響きます。
「次は腋」
あなたはエンゲルスの髪をつかむと強引に身体を裏返し、まだ無事なほうの腕を斬り飛ばしました。
「次は髪」
ちょっと待ってください。
髪を抜いたのは彼ではなく、お義母様じゃありませんでしたっけ?
とにかく彼は引き倒されて地面に叩きつけられ、あなたの手の中には血の滴る頭皮と毛の束が残ります。
「最後は胸」
あなたは頭皮を捨てると、白い頭蓋骨をあらわにして目を見開いた男の胸を、もぎ取らんばかりに強く鷲掴みにしました。
それもお義母様にされたことだった気がしますが、まあいいでしょう。
おはなしが本当だろうが嘘だろうが、あなたの怒りは本物なのですから。
さて、爪を立てたあなたの指は胸へと沈みこみ、なんこつを噛み砕くときのような小気味のよい抵抗と共に肋骨が押しのけられました。
熱い。あなたの手が早鐘を打つ心臓に触れます。
魔法と薬の力にみちみちて、今もなお死から逃げようとする、憐れなニンゲンの心臓が手のひらの中にあるのです。
これを握りつぶせば、彼は死ぬのです。
他人のいのちを転がす快感。
ああ、なんて気持ちがいいのでしょう。
トリナ・ドクトリーナの気持ちが分からなくもありませんね。
笑壺に入った表情を見せるあなたは、この果実を爆ぜさせれば自分は快楽のあまり、どこかにイッてしまうのではないかと心配になってしまいます。
だからあなたはあえて心臓を放してやり、血まみれの男に可愛らしい笑顔を見せてやりました。
「ま、待ってくれ、降さ……」
「ダメ」
あなたは彼を放り投げると、剣を高くつき上げます。
エンゲルスが落ちてきました。
串刺しです。
彼の身体がみずからの重みでやいばの根元の方へと沈んでいきます。
これで充分ですか? 違うでしょう? 我慢してますよね?
そうです、いいことを思いつきました!
あなたは追放される前に処刑されたことにしましょう!
串刺しにされるだけでなく、磔にもされ、その上で火あぶりなのです!
あなたはやいばを全身で咥えこんだままのエンゲルスを地面に突き立てると、彼の顎を上げてやります。
「こ、降参だ。ここから出ていく、だからいたぶらないでくれ」
あなたは耳を近づけ、哀願をしっかりと聞きました。
それから、彼の顔にキスをせんばかりの距離まで迫り、その可愛いらしい乙女のくちびるで「やだ」と言ってやります。
「このクソ女め!」
……おや? 「ぺっ」と聞こえましたよ?
あなたの顔に、くちびるに、男の吐き出した汚いものが掛かっています。
腹が立ちますね?
煮えくり返りそうですね?
勘違いをしていました。こいつはおもちゃではありません。
アミカを敗北に追いやった、あなたを窮地に追いやった憎い憎い仇です!
腹の底の炎がさらに猛るのを感じます。
あなたの秘密の鱗が、鱗だけでなく、その周囲までがうずくのを感じます。
熱い。全身が熱い。
あなたの目の前には、痛みに苛まれても必死に強がって笑おうとしているむかつく顔があります。
あなたは大きく口を開けました。
アミカが肉を喰らうように。
トリナが絶頂するように。
市長と市民たちが掟を唱和するように。
そして、雄々しく誇り高い、竜のように。
男の顔が白い光の中に消えます。
あなたは熱を感じます。
とても熱く、しかし不思議なことにそれはあなたを苛まず、男の顔だけを焼き焦がしていきます。
あたり一面が炎に包まれます。
男の顔面が焼き尽くされていきます。
皮膚が煤となり、頬が穴となり、目玉は溶け落ち、黒い骸骨のように豹変していきます。
「死ね」
あなたはそのうつろな頬を張りました。
ぱっと、黒い粉雪が舞い、消えます。
ああ、大歓声です。その中にはアミカの声もあるのでしょう。
あなたは鼓動が止まったのを確認すると、首なしの焼死体を投げ捨てます。
今日のお昼はステーキ、それもウェルダンに決定です。
掃除人がやってきて、ゴミを引きずっていきます。
黒い煤が地面に跡を残します。
箒で掃けば消えるこの軌跡が、今のエンゲルスの価値です。
ニンゲンというものは、頭が肝心なのです。
頭には記憶があり、知識があり、考える力があります。
傷を治癒し血が薬を運ぶ生理的運動も、魔力を導く魔法的運動も、すべては脳がつかさどっています。
いくら不死身とはいえど、ああなってはおしまいです。
頭のない存在は、無価値なのです。
記憶のない、自分では考えられない、この街でこき使われるだけの竜人のような、無価値な存在。
……あなたは脇腹を触りました。
広がっている?
でも大丈夫、安心してください。
あなたの頭の中には、たくさんのものが詰まっているのですから。
灼熱の怒りも、とろけあうような愛も、悲しい悲しい記憶も、ちゃあんと詰まっているのです。
あなたの名前はラプエラ。
自由にしてしあわせの都市、ドラクゥテロが白亜の闘技場、最強の闘士。
ひと呼んで、「ドラクゥテロの愛娘ラプエラ」なのです。
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