壊し屋のお仕事 4
低く、静かな怒りを湛えた声が耳に届いて、アニタはそちらに顔を向けて叫ぶ。
「逃げて!」
どうしてここにシリウスがいるのか。
なんのために自分がギルドへ相談に行ったのか、わかっていない。
焦るアニタに対しシリウスは、男たちに対して言葉を続ける。
「聞こえないの? その子の手を放してって言ってるんだよ」
「誰かと思えばあの美人の姉ちゃんじゃないか。探す手間がはぶけたよ。悪いけどすこし待っててくれないか。この生意気な女を啼かせてからだ」
さらに圧迫感を増した手首の痛みに、アニタが思わず顔を歪めたとき、これまで以上に力強い声が、界隈に響き渡った。
「放せ」
たったひとこと。
簡潔で、これ以上ないほど明確な意思を持った言葉が響いた途端、アニタの手首が自由を取り戻した。
「動くな」
耳にしたそれに体が絡めとられ、動くことができなくなる。硬直した体でただ視線だけをシリウスに投げると、「アニタはこっちに来て」と告げられた。自分の意思とは無関係に足が動いて、彼の隣に辿りつく。
「すぐに騎士団とギルドの警備員が来る。それまであなたたちは、そのまま動かないで」
いままで見たことがないような冷ややかな表情をしたシリウスが、冷徹に告げた。そして歩を進め、アニタが脱ぎ捨てたマントを拾うとこちらへ戻ってくる。
しかし気が変わったのか、アニタの手を掴んでいた男の前で立ち止まると、硬直したままの男の腕を掴んでぐるりと捻りあげた。
「いだ、いだだ、いだい、いだいぃ」
痛みに悲鳴をあげる男に、シリウスが「黙れ」とただひとこと告げると、瞬時に男のくちから声が聞こえなくなった。パクパクと空気を吐き出し、耐え難いらしい痛みに涙を溢れさせ顔を歪めていく。
ついにボキリと嫌な音が響き、シリウスが手を放すと相手の腕はぶらりと垂れ下がった。
何食わぬ顔で戻ってきたシリウスは、アニタの肩にマントをかける。
「帰ろう。これ以上こんなところにいる必要ないよ」
「……シリル?」
「ごめん。ぼくは治癒のちからは持ってないんだ。だからアニーの手を治してあげられない。ごめん、ごめんねアニー」
ついさっきの冷徹な顔が消え去り、アニタの知っている気弱で泣き虫なシリルが帰ってきた。そのことに安堵し、アニタの体はわけもなく震えはじめる。
「怖かったよね、ごめんねアニー。もう大丈夫だからね」
あやすように抱きしめられ、背中を優しく叩かれる。
再会してからずっと隣を歩いていたので、シリウスの背が自分よりも高いことはわかっていた。
アニタ自身が平均女性より背が低いこともあり、小柄な体格を気にしているらしいシリウスを「あたしよりずっと高いじゃん」などと慰めたりもしていた。
子どものころの延長で、ちょっと成長したけれど、シリルはシリル。なにも変わっていないと思っていた。
けれど今こうして感じるシリルの体は固く、まわされた腕は自分よりも太く筋肉質だ。借りたマントは前を掛け合わせても布が余るぐらいに大きかったが、シリルの腕の中はそれに見合うぐらいに大きくて広かった。
周囲にいる冒険者たちが男性の基準になってしまっていたが、シリルもまた男なのだと、ようやく実感する。そっと見上げた美しい顔が乗る首まわりは、アニタが考えていたものよりずっと太い。
「アニー。大丈夫、歩けそう?」
声にあわせて動く喉も養母とは違う。むしろ養父に近い。
「顔が赤いよアニー。もしかして痛みで熱でも? どうしよう、早く帰らないと」
「痛い、かも」
手首の痛みすら忘れるぐらい、なんだか胸の奥のほうが痛い。
なんだろう、これは。痛みが飽和して、感覚がおかしくなっているのだろうか。
思考が定まらず、視界がまわりはじめる。
「アニー。ねえ、しっかりしてよアニー」
シリウスの慌てた声の向こう側で、大勢の足音が聞こえはじめる。「アニー、無事か!」と叫んでいるのはギルド長の声ではないだろうか。
――ファリドおじさん、雑事は部下に任せるんじゃなかったの?
かすかな疑問を抱きながらも、アニタの意識は遠のいていった。
◇
シリウスの公演は昼と夜、二回おこなわれた。
そのどちらも盛況で、夜の部ではその容姿と相まって、本当に月の女神のようであった。老若男女問わず、多くのひとの心を掴んだに違いない。
誇らしい気持ちの傍ら、すこしだけ気分がよろしくない。我ながら心が狭いとアニタは独りごちた。
歌い手シリルは、これを最後に引退するらしい。
看板を張る存在に老いは禁物。衰えてしまう前に引き下がり、若く才能のある子どもに後を託すのも、歌い手の矜持であり、誉となるらしい。
引退後のシリルがなにをするのかといえば、冒険者ギルドへ所属し、冒険者として仕事をするというからアニタは驚いたものである。
「やることは本質的には変わらないんだ。唄を歌う。ただ、歌うときに声に魔力を乗せる。まじないの唄。呪歌っていうんだって」
あのとき。
シリウスが放った言葉は男たちを縛りつけた。
硬直は解けることがなく、シリウスが「元に戻れ」と言わないかぎり、ずっと縛られたままだったと後から聞いた。
ギルドの調査員によってシリウスの言語魔力が発覚し、かつて一部の民族が使っていた呪歌に似ているのではないかということになった。
ただ命令をするだけでも効果はあるのだろうが、どうせなら得意の歌に乗せたほうがいい。失われて久しい呪歌の使い手として、シリウスの歌は新しいかたちで続いていく。
「怪我の功名だね」
「そんなこと言って。アニーはもうあんな真似しちゃダメだからね」
「シリルを守らなきゃって思ったんだもの、仕方ないじゃないか」
「ぼくだってアニーのことを守りたいんだ。わかってよ。アニーにとってぼくはまだ弟か妹みたいなものかもしれないけど、ぼくだってこれからもっと修行して、アニーを守れるぐらい強くなってみせる」
べつに弟とも妹とも思っていない。あの日以来、美少女は美男子にしか見えなくなって困っているのだ。
赤くなる顔をごまかすように、アニーは声をあげた。
「でもさ、よかったよね。あの連中の背後にいる侯爵家が圧力をかけてこなくってさ」
「放蕩息子に手を焼いていたみたいだし、縁をきるいい機会だったんじゃないかな」
「でも侯爵さまってすっごく上のひとじゃん。ちょっと怖かったんだよね」
「大丈夫だよ。そのさらに上にいる公爵家が、それとなく文句を言ったみたいだからね。逆らったら貴族社会での立場が揺らぐ。それぐらいなら問題児の息子を、こんなやつ知らんっていうほうがいいんだよ」
「こわっ。都の貴族さまっておそろしいねえ」
「悪いひとばかりじゃないよ」
だってそのシュトラオス公爵家は、シリウスを引き取って育ててくれた家であるし、なによりアニタが慕うギルド長のファリドは、そこの血縁者。冒険者を目指して出奔し、家督を弟に譲った放蕩息子であることを知っているのは一部のひとのみ。当然、アニタの養父母は知っていて黙っている。
アニタが知っておく必要は特にないし、知らせなくてもいいだろう。シリウスだって権力に頼るのは好きじゃない。自分のちからで成しえてこそ、男というものだ。
ファリドが若くしてギルド長の座に就いているように、シリウスも精進を続け、そしてアニタの隣に立っていいと認めてもらえる男になるのである。
「冒険者として、これからも一緒にがんばろうね、アニー」
「うん、よろしくねシリル」
壊し屋アニタのパートナーとして、常に隣に立つ呪歌の使い手は、銀の歌姫と呼ばれ、数々の伝説を残すようになる。
これはその、始まりの序曲。




