9.冴子の気持ち
由香里を送り出した冴子と美晴は、キッチンで並んで夕食の準備に取りかかった。
「ごめんね、なんだか赤ちゃん返りみたいよね。恥ずかしいやら情けないやら」
冴子がため息混じりにこぼすが、美晴は笑っている。
「でも、かわいいと思ってるんでしょ。由香里のおかげで、私はむしろ落ち着いていられる気がするから、助かってるよ」
冴子は、今度は美晴に呆れた様子で肩をすくめた。
「美晴ちゃんのほうが由香里よりお姉さんなのは確かだけど、親からすれば子どもはいつまでも子どもよ。美晴ちゃんもね、うちの娘」
「そうだよ、美晴ちゃんはうちからお嫁に出すんだからな」
テーブルにカトラリーを並べていた健彦が、口を挟んできた。
「そんなこと言って、健彦さんは由香里が結婚するってなったら泣いちゃうでしょう。今日も本当は行かせたくなかったんじゃない?」
「いやいや、二十歳の娘に彼氏のひとりやふたりいないのも困りものだから。デートくらいはどんどん行ってもらわないと。でも、結婚となったらパパ泣いちゃうかな」
真顔になった健彦を見て冴子と美晴が笑う。家族団欒に見えなくもない。美晴にとっても自然な居心地の良さがここにはある。
「美晴ちゃんはごはんとバゲット、どっちにする?」
「バゲットでお願い。わあ、サワークリーム落とすんだ、お店みたい」
ビーフシチューの皿に、冴子がスプーンでそっとクリームを落とすと、濃いシチューの上にに白い線が浮かんでゆっくりにじむ。
「由香里は美味しいもの食べてくるんだから、こっちも特別仕様にしてみました。さ、食べましょう」
ビーフシチューにバゲット、グリーンサラダとは別に用意されたカプレーゼは健彦の好物だ。
「冴子さんは絶対ライス派だよね。私はバゲットがかっこいい派だなー」
美晴はバゲットにトマトをのせ、健彦はチーズをのせる。皿にライスが盛ってあるのは冴子だけだ。
「かっこよさなんだ。ごはんを食べないと食事したって気分にならないのよね。作るのは洋食が多いけど。文乃先生の料理は、ザ・和食って感じだったから憧れてたわ」
「ハンバーグとかは作ってくれたけどね。でも絶対お米なんだもん、かっこいいバゲットに憧れてたよ?」
食後にはチーズケーキとワインが出された。健彦は自分用にコーヒーを淹れて座る。
ひと息ついて、美晴は身構えた。半ば無理矢理に由香里を外出させたのは、大人の話をするためだと気がついていた。
冴子と健彦も少し緊張した面持ちで、口を開くタイミングをはかっていた。コーヒーを一口飲んだ健彦が話しだす。
「美晴ちゃんの事情は聞いたんだけどね、正直なところ僕はまだ半信半疑だ。もちろん文乃先生を疑っているわけじゃないんだが」
第三者ならそう思うだろう、むしろ端から信じない方が普通だ、と美晴もうなずく。
「ただ、さっきも言ったけど、僕も冴子も美晴ちゃんのことは娘だと思ってる。これから美晴ちゃんがどうするにしても、大人としての助言や、力を貸すことは当然だと思っているんだ。それで、ひとつ提案なんだけど、僕たちの養子になるというのはどうだろう?」
予想外の単語に美晴は驚き、ぽかんと口を開けてふたりを順に見てから言った。
「養子? なんで?」
冴子は美晴の子どもっぽい仕草に微笑む。
「理由はふたつあるんだけど。ひとつは由香里と一緒。あなたを引き留めたいの」
「冴子さん……」
「文乃先生も悩んでたのはわかってる。だからあんな手の込んだことをして、美晴ちゃんがあれをみつけない可能性も残していたんでしょう。でも、私はそのことに気づけなかった。だから、鍵を簡単に渡してしまったんじゃないかって。私はもっと立ち止まって考えるべきだったのかもしれない。……でも、そのことだけじゃなくて、美晴ちゃんがいなくなるのは私も嫌なのよ」
冴子は手を震わせて、ゆっくりと持っていたワイングラスをテーブルに置いたが、少し大きな音がした。
「美晴ちゃんのお父様は、当然会いたいと思っているでしょう。でも、あの手紙が真実で、もうあなたに会えなくなるのなら、簡単に、行ってらっしゃい、とは言えないわ。もし、私たちが形式だけでも家族になって、それがこちらに残る理由になるならってことよ」
「僕らは美晴ちゃんを家族同然に思ってるよ。だけど、今のところはものすごく親しい友人関係でしかない。だから形だけでも親子になって、子どものやることに口出しをしようというわけだよ」
もう二十歳になったのに、と美晴は言い返したがあふれた涙は止められそうにない。
「歳なんて関係ないわ。『親からすれば子どもはいつまでも子ども』って言ったでしょう?」
美晴を見つめる冴子の目も潤んでいる。肉親に縁遠く、さらに文乃が亡くなってから、美晴が孤独に苛まれたことは一度や二度ではない。救ってくれたのはこの人たちだった。それがどれだけ幸せなことだったのか、ちゃんとわかっている。
「でも、美晴ちゃんがお父様に会いたい気持ちも、お父様が美晴ちゃんに会いたい気持ちもわかるから。私たちが強引に引き留めていいとも思ってないわ」
涙をこぼした冴子に代わって健彦が説明を続ける。
「僕はね、もし、美晴ちゃんがお父さんのところへ行ったとしても、帰ってこられるんじゃないかとも思うんだ。まあ、帰ってきて欲しい、が本音だけど。でも文乃先生は帰って来たわけだし、絶対はないだろう? 美晴ちゃんが帰ってくる場所を用意しておくためにも、僕たちが家族になっておくことは意味があると思う」
文乃が最初に冴子に宛てた手紙、美晴がいなくなったら後のことを頼むという願いを、冴子たちは引き受けてくれようとしているのだと、美晴は気づいた。
「お母さんの最初の手紙には、そういうことも書いてあったの?」
「養子のことは私と健彦で話しあった結果よ。文乃先生は税理士に相談して、印税やお墓のこと、あとマンションを処分してほしいって。ただやっぱり私たちが代理人になるのは難しいでしょうし、私はそれをしたくないのよ」
美晴が冴子の涙をこんなに見るのは、はじめてかもしれない。文乃が亡くなったときは、茫然する美晴の傍で淡々と親族の代わりをしてくれていた。
健彦が冴子の肩に手を置いてそっとなだめる。
「僕たちが養親になっておけば、娘の財産を管理する体で残しておける。そして、美晴ちゃんが帰ってきたらそのまま渡せる。だから、どちらにしてもメリットはあると思うんだ。返事はすぐでなくていいから、考えてみてくれないかな」
「……ありがとう。ふたりともお人好し過ぎるよ。私にしかメリットないじゃない」
「そんなことはないよ。堂々とパパと暮らそう! って言えるようになるし、本当にここに住んだっていい。それに、帰りを待つ権利も持てるんだからね」
健彦はいつもと同じように穏やかに笑う。父親のいなかった美晴にとって、最も身近なお父さんは健彦だった。
「ありがとう、考えてみる。正直、お父さんに会いたいのかどうかもまだよくわからない。だって生きてるって思ってなかったから」
そのとき突然、美晴の目の前に霧のように光の粒子が湧き出した。目の前にふわふわと広がった細かな光が、ゆっくりと一点に集まっていく。集まった光が一際輝いた瞬間、美晴が思わず手を出すと、ころんと虹色の石がひとつ掌に落ちた。