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虹色の霧の国  作者: 永井 華子
第一章 生まれ育った世界
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8.由香里の気持ち

 美晴が花島家で数日を過ごした週末。渋る由香里を、美晴と冴子が送り出そうとしていた。


「今日は沢崎先輩との約束の方が絶対大事! 素直になりなさいって」

「でも、楽しめないよ」

「なに言ってるんだか、私のことは今日明日でどうこうなるわけじゃないんだから、安心して。それより由香里の約束は今日なんだから。誕生日のお祝いで誘ってくれてるのに、行かなきゃだめだよ」


 日記帳を開いてから神経質にになっているのは、美晴よりもむしろ由香里のほうだった。美晴自身は、表面状はなにも変わらない日常を過ごしている。


「わかった。行ってくる。美晴、ちゃんとうちに居てよ?」

「今夜はうちで美味しいビーフシチュー食べるんだから、大丈夫よ。いい加減にしないと、遅れるわよ。行ってらっしゃい」

 呆れる冴子に追い出され、やっと由香里は出かけて行った。


 約束したイタリアンレストランは、普段入るには少し気後れするが、学生がちょっと贅沢をするには相応しい店だった。由香里が着くと店の前には、沢崎がすでに待っていた。

「お待たせしました」

「いや、ピッタリだよ。席の予約だけしてあるから、入ろう」


 沢崎智樹は、由香里と美晴の一学年上の理学部の学生だ。由香里は教育学部、美晴は文学部なので、バイト以外で会うことは滅多にない。


 はじめは偶然由香里とシフトが数回重なっただけだったが、最近は美晴にひやかされた通り、なんとなくシフトを合わせるようになっている。なにもなければ、今日も由香里は浮かれて出かけたことだろう。


 店員に案内された席につくと、普段ならちょっと躊躇する値段のコースを注文した。用意されていた前菜がすぐに並んだところで、沢崎が紙袋を渡してきた。


「二十歳おめでとう」

「ありがとうございます。開けてもいいですか?」

「もちろん。気に入ってもらえるといいんだけど」


 由香里が丁寧に包装紙をはがして箱を開けると、脚と台座が淡いゴールドになっているワイングラスが入っていた。

「わあ、かっこいい! ありがとうございます。でもこれって」


 沢崎は顔の前で右手を振って、由香里の言葉を先に制した。

「いや、確かに一式そろえるとそれなりの値段だけど、ひとつだから。お母さんのワインコレクションがすごいって神野さんに聞いたんだ。使ってくれると嬉しいな」


 由香里はその言葉に、誕生日以来の出来事を思い出してしまった。涙目になりながらも、なんとかありがとうございますと口にする。

 隣の席の老夫婦には、彼氏からのプレゼントに感激する女の子に見えているかもしれない。


 しかし沢崎にはそう見えていないことくらいは、由香里もわかっている。それでも、今日の約束が楽しみだったことを思い出して、食事の間はいつも通りの態度を心がけた。


 だが、デザートのパンナコッタとコーヒーが出てくる頃には、空元気もなくなりかけていた。

「それで、悩み事はなに? 俺でよければきくよ。これでも三人兄妹の一番上だから聞き上手だよ。聞くだけだけど」

 沢崎がコーヒーにミルクを入れながら、にっこり笑って言った。


 由香里は一瞬驚いたが、すぐに、ごめんなさい、と下を向いた。

「せっかく誘ってもらったのに、こんなんで」

「いや、今日の目的はプレゼントを受け取ってもらうことだったから、俺は満足。でも、元気がないのは気になるから。よかったら話してみない?」


 抱えている悩みは由香里自身のものではないし、全てを話して信じてもらえるとも思えない。勝手に話していいことでもないはずだ。

 本来なら美晴の話を聞いてあげないといけないのに、自分の方が狼狽していることも情けなく思う。沢崎に心配をかけてしまっていることも。

 由香里は当たり障りのない程度に、美晴の事情を話すことにした。


「美晴のお母さんって、美晴のお父さんのことはなんにも話さないで亡くなったんですけど、最近お父さんのことがちょっとわかったんです。ただ、美晴がお父さんのところに行くかはまだ決まってなくて、というかお父さんのところに行ったら帰ってこられないみたいで……。私は美晴の話を聞いてあげないといけないのに、美晴がいなくなるかもって思ったら『行かないで』って気持ちばっかりになって。それでこのところ頭の中がいっぱいで」


 沢崎はコーヒーをゆっくり飲みながら、話を聞いてくれた。

 今まで当たり前に一緒にいた美晴がいなくなることが、嫌だ。でも美晴が父親に会いたいなら、止めることはできない。


「神野さんのお父さんって外国の人だよね? 簡単には行き来できない国ってことかな? そういうところだと、確かにすぐには会えなくなるね。でも、彼女自身はなんて言ってるの?」


「……まだちゃんと話してないかも。引き留めなきゃって気持ちと、それはダメだって気持ちが同じくらいあって、美晴の顔を見るとなにも言えなくなって。美晴の気持ちを聞くのも怖くて。今日も『うちに居てよ』って言って出てきたんです。私、子どもみたい」


 うつむく由香里にデザートの皿をすすめながら、子どもなら、プリン好きでしょ、と沢崎が言った。顔を見えていなかったが、きっと笑っているに違いない。由香里は少し落ち着いて、デザートスプーンを手に取った。


「神野さんって、俺らの歳にしては結構大変な境遇だよね。ご両親はいなくて、頼れる親戚とかもいないんでしょ? だからきっと今までも、いろんなことをひとりで考えてきたんだろうね。同年代に思えないくらい落ち着いてる。彼女を見てると、俺も自分がガキっぽいって思うよ」

 だから俺もプリンが好き、と言って沢崎もパンナコッタを口に運ぶ。


「まあでも、今まで神野さんと家族同然のつき合いをしてきたのは確かなんだし、由香里ちゃんが神野さんのことが大好きってことは、彼女もわかってるでしょ」


 沢崎が「だからいいと思うよ」と言った言葉の意味がわからなくて、そして「由香里ちゃん」と呼ばれたことに驚いて顔を上げた。由香里の視線を受けて、沢崎が続ける。


「大好きな家族が遠くに行くのは嫌だって、由香里ちゃんは言っていいんだよ。家族にはわがままを言っていいんだから」

 特に兄ちゃん姉ちゃんに対してはね、と言って沢崎がにやりと笑ったので、由香里もやっと少し笑うことができた。


「そっか私は妹なのか」

「そうそう、かわいい妹はわがまま放題でいいんだよ。うちのはかわいくないけどさ」


 そう言いながらも妹のことがかわいいのだろう、沢崎の表情は穏やかだ。


「それで神野さんがどうするかは、わからないけどね。でも、お父さんのところへ行くことになったとしても、引き留められたってことは、帰る場所があるってことだから。それを伝えることは結構大事なんじゃないかな。家族って基本的に遠慮がないじゃん、良くも悪くも。ここは遠慮したらだめなところだと、俺は思うよ」


 最後の一匙を口に入れると、由香里はもやもやしていた気持ちも一緒に飲み込めたような気がした。


「そうかも。私は美晴の家族なのに、いきなり現れたお父さんに遠慮しちゃってたみたい。私の方が美晴とずっと一緒いたんだから、行かないでって言う権利はあるよね。うん、ありがとう。先輩のおかげで元気出た」


 美晴はおそらく行ってしまうだろう。それでも、行かないで欲しいと思う気持ちを伝えよう、美晴の家族として。

 由香里がようやく落ち着きを取り戻すと、同じくパンナコッタを食べ終えた沢崎が言った。


「よかった。じゃあ、すっきりしたところでもうひとつの今日の目的。由香里って呼んでいい? オーケーなら、次から俺のことも名前で呼んでよ。彼氏として」


 家に帰ったら、美晴に話をする前に、まず由香里のほうが話をさせられるのだろう。美晴の予想通りに。

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