葡萄酒祭りにて 後編
翌日、美晴は町歩きための装いを、とエマに伝えた。
こちらはいかがですか、とエマが出してきたのは冴子に買ってもらったワンピースドレスであった。
「もってきてくれたのね!」
「はい、もしかしたらこのような機会があるかと思いまして。王都でお嬢様がお召しになるのはちょっと難しいですけど、こちらのお祭りならよろしいのではありませんか? ラルフ様」
ラルフははじめて美晴に出会ったときの姿を思い出して、微笑みながらうなずいた。
「いいと思うよ、華美でなく上品だ。いいところのお嬢様に見えるのではないかな」
ラルフの感想に美晴は目を大きく見開いて驚くと、声を出して笑った。ラルフは腕を組んで首を傾げた。
「どうかした?」
「これをプレゼントしてくれた人が、まったく同じこと言っていたのよ。『いいところのお嬢さんに見えるわよ』って。だから可笑しくて」
ひとしきり笑った美晴は、ふと気になっていたことを思い出して自分の瞳を指さした。
「そういえば、私はこのままでいいのかしら?」
「大丈夫だよ。私の顔は知られているし、ローザリンデと婚約したことも、もう広まっている。まあ、人目を集めるだろうが、下手に他人を装って、浮気していると噂されるほうが面倒だ」
「あら、そんな噂が立つようなお心あたりが?」
「お祖父様のようになるのは、やっぱり難しいのね」
息の合った主従に、ラルフの眉間に皺が刻まれる。
「君たちは最近、よく似てきたよね……」
渋い顔をするラルフに、美晴とエマは一際大きな声で笑った。
淡い水色のワンピースに、ユリアーネから贈られた葡萄染めのストールを羽織る。つばの広い日よけの帽子も葡萄染めで、こちらはラルフが用意したものである。
それらを身につけた美晴は、確かに地元の資産家のお嬢様に見えなくもない。しかし、瞳は王族の証、七色を閉じ込めた真珠の輝きを放つ。祭りの群衆に紛れることは難しいだろう。
伯爵邸から町までは馬車で移動して、催しの中心である広場の手前からは歩く。
ラルフも今日は簡素な上着に、いつもよりは少し細めのタイを紫水晶のピンでとめているが、領主の甥として顔の知られている彼は、もとより祭りの人だかりに慣れている。
美晴がラルフの腕に手をおいて歩き出すと、すれ違う人が次々と驚きをあらわにする。覚悟していたとはいえ、美晴の顔は上気する。
少し離れて、護衛のエッカルトとオリヴァーがついてくるが、彼らも今日は騎士服を脱いでいる。
広場に入るところでラルフはエッカルトに声をかけた。
「今日は張りついていなくてもいい。どうせいたるところでクヴァンツ騎士団が警備についている。お前たちも楽しんでこい」
エッカルトがゆっくりと首を振りながら、ため息を吐く。
「そういうわけにはいかないでしょう。ローザリンデ様がおられるのに」
「それを言うなら、私がいるのだから安心しろ」
「言っても無駄なのは承知してますけどね、もう少し部下の仕事のことも考えてくださいよ」
美晴は、アルマに同じような言葉で叱られたことを思い出し、まっすぐに口を引き結ぶ。
「わかってるなら、言わなければいいだろう。もう部下ではないしな。まあ、なにかあれば連絡を入れるから」
肩を落とすエッカルトと、笑うしかないといった様子のオリヴァーに、美晴が声をかける。
「ごめんなさい。無茶なことはしないわ。なにかあったら必ず連絡します」
「いえ、ローザリンデ様に謝っていただくことではありませんから。……我々はこの辺りで待機しております」
ラルフとふたり、がやがやとした人いきれの中を歩いていく。美晴は大量の視線を浴びて落ち着かないが、祭の空気に気持ちは浮き立っていた。それをごまかすように、ラルフに話しかける。
「エッカルトも苦労するわね、仕える人が自由すぎると」
「あれで、切り替えがはやいのが取り柄だから。今ごろはそれなりに楽しんでいるよ」
「そうしないと、やっていられないということではないの?」
「諦めることも大切だよね」
涼しい顔のラルフと隣の美晴の顔を見て、警備の騎士が慌てた様子で敬礼をする。ラルフが視線を返し、美晴は微笑を向ける。こういうときに頭を下げてはいけない、いやいかなる時も、と美晴はアルマに厳しく言われている。
「警備はクヴァンツ騎士団の人なのよね?」
「アルンシュタットはそれほど広い領地ではないからね。普段は伯爵家直属の騎士と、領民の自警団が治安維持を担っている。祭には自警団の者たちも参加するから、警備の人員はクヴァンツ騎士団から出している。お祖母様の里帰りのお供もあるしね」
「壮大な里帰りねえ」
広場にはさまざまな露店が出ており、その間を領民や旅人、子どもたちが賑やかに行き交う。土産物の店や食べ歩きできる料理の店を冷やかしたり、ときおり「おめでとうございます」などと声をかけられたりしながら、祭の空気を味わう。
広場からのびる大通りにも露店が並び、その先の第二会場には、旅芸人や芝居の一座が訪れて興行している。
芝居小屋に入ってみたが、男女の恋愛模様を描いた喜劇に美晴は満足しなかった。
「昨日のユリアーネ様のお話のほうが楽しかったわ」
苦笑するラルフは、お祖母様の話もかなり脚色があると思うよ、と言ったが、それでもユリアーネの物語のほうが芝居向き、ということには変わりない。
芝居にするとなったら、さすがのアルベルトも反対するだろうか、いやそれでもユリアーネのおねだりには逆らえないかもしれない。
「日が傾いてきたね。葡萄畑のほうに行ってみようか。明日には実のついた樹はなくなってしまうから」
町の外れ、伯爵邸の反対側から葡萄畑に向かうと、なだらかな斜面に葡萄の樹が連なっている。
「少しのぼるけれど大丈夫?」
「これくらい平気よ」
踏み固められた土の上を、編み上げの靴で踏むと柔らかい感触がする。石畳を歩いて疲れた足には心地よい。葉の下からのぞく葡萄の実はたわわに実って、素人目にも収穫時だとわかる。
伯爵邸からは見えなかったが、斜面の中ほどに少し広く空いたところがあり、素朴な木製のベンチとテーブルがおいてある。農作業の合間に休憩を取ったり、作業を行ったりするための場所らしい。
ラルフがそこで立ち止まったので、美晴は来た道を振り返ってみた。少し暗くなりはじめた空に、祭の明かりが吸い上げられていく。
「手を出して」
「はい?」
ラルフを見上げると、右の拳を美晴に向けて突き出している。掌を並べて差し出すと、ラルフは拳を開いて美晴の手を包み、なにかを握らせた。
美晴が手を開いてみると、銀色の輪に虹色の石が乗った指輪があった。
「先に言っておくけれど、母上の入れ知恵だ。あちらでは婚約者に指輪を贈るそうだ、と」
ラルフが照れながらも、少し残念そうにしているのは、指輪以上の贈り物を自分で思いつかなかったからだ。
「そう、ね。そういえばこちらではあまり指輪を見ないわね」
「精霊石の指輪は多いよ。魔力を使うのに便利だからね」
「実用品になるのね。この石は?」
「蛋白石だよ。美晴の精霊石ほどではないがよいものが入ったと、これも母上が。こういったものに今まで縁がなかったから、自分で選んだものでなくてすまない」
ラルフの表情に、美晴は思わず笑みがこぼれる。
「選ぼうとしてくれた気持ちが嬉しいわ。ありがとう」
「どの指につける?」
「……左の薬指、かしら」
ラルフは指輪を取り上げると、美晴の左手を取って薬指に通した。
そのまま握った手が紫の光に包まれると、指輪は美晴の指にぴったりに納まった。
「えっ、ああ、魔法で大きさを変えたのね。ありがとう」
うなずくラルフに、美晴は笑顔でもう一度礼を言う。
「気に入った?」
「ええ、とても。あ、でも……」
「気に入らないなら、別のものに変えるから言ってくれ」
「とても気に入ったわ。嬉しい」
不安そうなラルフに、慌てて首を振るが一度口にしたことを忘れてくれるわけはない。
「私が選んだものではないから、気にしなくていい。たまにはわがままを言ってみたら?」
「ええと、指輪を贈ってくれて嬉しいし、とても綺麗だわ。ただ、石をそれと交換できたらいいなと思って……」
薄暗い中でも顔が赤くなったことがわかる美晴が、ラルフの胸元を指さす。そこには青みの強い紫水晶があしらわれたタイピンがある。美晴の言葉の意味を正しく理解したラルフは、頬をゆるめていとも容易く言った。
「いいね、私もそのほうがいいな」
ラルフは美晴の手を引き、指輪の石をタイピンに重ね合わせる。紫水晶と蛋白石がカチリと小さく音を立てると、再び紫の光が美晴の視界を奪う。ゆっくりまばたきをした美晴が目を開くと、指輪とタイピンの石は入れ替わっていた。
まるく見開いた瞳の上でまぶたををぱちぱちさせながら、美晴の口もとがゆるむ。
指輪には紫水晶、ラルフのタイには虹色の蛋白石が輝く。それでも素直になれないのはきっと、今日のふわふわした気持ちが伝わっているとわかるから。
「魔法を気軽に使いすぎではないの?」
「たいした魔力は使ってないよ。お気に召しましたか? お姫様」
銀色の台に青みの強い紫水晶の指輪は、ラルフの色そのままで、美晴は今度こそ素直にありがとうを伝えよう、と顔を上げた。
だが、美晴が口を開くよりも先に、宵の空を背負ったラルフはおだやかに微笑んで、大切な婚約者の身を引き寄せると、静かに唇を重ねた。
葡萄踏みは、アルンシュタット領の一大行事である。
朝から伯爵家の葡萄畑では、流れるように葡萄の収穫作業が進んでいる。ほとんどの葡萄農家の収穫は終わっているため、領内の農家が総出で行う。
「お嬢様は今年もご機嫌だわねえ」
「もう、おばあちゃん、お嬢様じゃなくて、大奥様でしょ」
「いやー、お嬢様が侯爵夫人になったと思ったら、ラルフ様は大公女様とご婚約だなんて、アルンシュタットは安泰だなあ」
「じいちゃん、ラルフ様はアルンシュタットのお孫さんじゃねえよ。侯爵様のほうだよ」
ユリアーネが子爵令嬢であった頃を知る者にとって、彼女は今でも自慢のお嬢様である。
ユリアーネの父子爵がはじめたワイン事業は、アルベルトによって拡大し、エルネストの代になると、観光収入も増えてアルンシュタットはより豊かになった。
領民は皆、侯爵家との縁をありがたく思っている。それをもたらしてくれた、ユリアーネお嬢様のための葡萄踏み。
準備には力が入る。年に一度のこの行事はアルンシュタットの領民も、楽しみにしている。
収穫された葡萄はすぐに選別され、葡萄踏みの会場へと運ばれる。大きな桶の中に次々と大粒の葡萄が放り込まれていく。満面の笑みで葡萄を見つめるユリアーネの側には、当然アルベルトが寄り添っている。
「いい天気でよかったね。今年の出来はどうかな」
「粒ぞろいの綺麗な実がつきましたね。いいワインになりますわ」
桶の周りで侯爵家と伯爵家の子どもたち、葡萄農家の子どもたちが今か今かと待ちわびている。
領内の若い女性も多く、彼女たちの視線を浴びる美晴も、真っ白なワンピースを着て興味深く作業を見守っていた。
「葡萄踏みをするのは子どもと女性だけなの?」
「男たちは葡萄運びが忙しいからね。それに女性と子どもが踏むほうが、美味しいワインになるそうだよ」
ラルフの説明に美晴は胡乱な目を向ける。
「印象だけの話でしょう?」
「いや、本当に。潰し過ぎると渋味が多くなって味に影響するらしい。だから身軽な子どもや女性が踏むと、ちょうどいいと聞いたよ」
「そうなのね。知らなかったわ」
感心する美晴に、ラルフは不穏な言葉を投げかける。
「でも、エルネスト叔父上は、今年は大公女殿下が参加されるから、特別なラベルに変えて売り出そうかと言っていたけれどね」
「なにそれ、ちょっと詐欺みたいに聞こえるわよ」
「あの人は商売上手だからなあ。伯爵が役不足に思えるよね。ローザリンデが参加するのは嘘ではないから、大丈夫だろう。今年の“アントイネッテ”はよく売れそうだ」
葡萄踏みで仕込む伯爵家のワインの名前は“アントイネッテ”、もちろん赤ワインである。
「……エルネスト様に、ラベルを変えないようにお願いして」
「言っておくよ。さあそろそろはじまるようだ。お祖母様の近くについていてあげてくれるかな。はしゃいで転ばないように」
「わかったわ。でも、私もはしゃいでしまいそうよ」
美晴はユリアーネのもとへ行き、手を繋いで桶の中に足を踏み入れる。足の下で葡萄の粒が弾けていく。同じ桶に入ってきた子どもたちはあっという間に、紫紺色に染まる。
遠慮のない子どもたちは、美晴やユリアーネにも手ですくった葡萄を浴びせかける。皆が葡萄にまみれるのに、さほど時間はかからなかった。
賑やかな喧騒の中で、アルベルトの目には過ぎし日のユリアーネの姿が映る。あの日と変わらずきらきらと瞳を輝かせる妻に、目を細めているとラルフが隣にやってきた。
「お祖父様のお気に入りはこれをご覧になることでしたね」
「この世で一番美しい絵だ」
「そうですね、お気持ちが少しわかりましたよ」
そうだろう、と満足そうにうなずくアルベルトは、ラルフの視線の先に目を移す。
「ローザリンデ様も楽しんでおられるご様子で、よかったな」
「お祖母様のことが大好きになったそうですよ」
「それは、ありがたいお言葉を。ユリアも喜ぶだろう。カールたちはグリュークス城へと言うだろうが、またここへもいらしてくださるよう、お願い申し上げてくれ」
先代侯爵であるアルベルトにとってもクヴァンツ領は、自らの領地である。養子に出した次男が継いでいるとはいえ、アルンシュタット領はあくまで妻の実家に過ぎない。
だが、妻に出会い、毎年彼女の最も美しい姿――アルベルトにとっての――が見られるこの土地を愛している。もしかしたら、自領以上に。
祖父の胸中を思いやってラルフも笑みを浮かべる。
「また来年も来ますよ。ローザリンデも喜びます」
「是非、そうしてくれ」
「そろそろお祖母様はお疲れでしょう。引きあげますか」
揃って妻と婚約者を迎えに行くと、ふたりとも手足はもちろん、真っ白だったスカートも斑らに葡萄色に染まり、顔や髪にまで果汁が飛び散っている。
ラルフに笑顔を向けて美晴は興奮した様子で言った。
「楽しかったわ。すごい格好になっているでしょう? これがあの綺麗な葡萄染めになるのね、楽しみだわ」
「華やかな色にはなりにくいですけれど、染め方を変えると違う色合いにもなりますわよ」
「そうなのですね。ユリアーネ様にいただいたストールも素敵な色でしたけど、別の色も見てみたいですわ」
すっかり打ち解けたようすの美晴とユリアーネに、ラルフも自然と笑顔になる。
そして、ラルフはふと思いついたことを美晴の耳元で囁いた。
「あの指輪と近い色合いにもできると思うよ」
美晴はわかりやすくときめいた表情になるが、少し考えてからつぶやいた。
「あんまりやり過ぎると、お父様のご機嫌が悪くならないかしら」
「確かに、そうだな……」
その頃、王都にひとり残されたリューレ大公が、毎年愛娘をアルンシュタットへ連れて行かれることを恐れて、林檎祭りの開催を考えはじめていたことを、ふたりはまだ知らない。
本編完結後、たくさんの方に読んでいただき、ありがとうございます!
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