葡萄酒祭りにて 前編
45話が日本の暦で8月末、このお話はその後の10月中旬になります。
雲ひとつない秋晴れの空の下、クヴァンツ侯爵家の馬車が、アルンシュタット伯爵家の本邸へ到着した。
出迎える伯爵家の一同は、緊張した面持ちの中に隠しきれない興奮がある。
先頭の馬車の扉が開くと、彼らのよく知る青年が降りてくる。
クヴァンツ侯爵の三男、ラルフ・ジークハルトが、馬車の中に向かって手を差し出した。その手を頼りに降りてきた妙齢の女性こそが、待ちこがれた貴賓である。
七色を閉じ込めた真珠の瞳に、艶やかなヘーゼルの髪。少し固い表情で馬車を降りたその女性は、門前に並ぶ迎えの人々を見ると頬をゆるめて挨拶した。
「ローザリンデ・美晴・リューレです。お招きありがとうございます」
透き通る青空と同じ色のドレスが、白い肌によく映える。伯爵一家と使用人一同は皆、噂通りお美しい大公女殿下を笑顔で歓迎した。
話は、リューレ大公女こと、美晴がアルンシュタット領を訪れたときからひと月ほど遡る。
「美晴はワインを飲める?」
ラルフが『美晴』と呼ぶのは、ふたりきりのときに限る。正確に発音することが難しい日本名を、父であるクラウスは片言でしか呼べないからだ。
ラルフが正しく呼ぶのを聞けば、クラウスの機嫌は、地の底をはうほどに悪くなるだろう。
お父様がつけてくださった名前も気に入っていますよ、と美晴が言ったことで、最近ではクラウスは『ローザリンデ』と呼ぶことが増えた。
ラルフはといえば、クラウスが別邸へ戻ってすぐに、近衛騎士を辞してリューレ騎士団の一員となった。
もともとクラウスの監視が任務であった近衛騎士団第二小隊は、第一小隊長が隊長を兼任し、人員はそのまま大公女の護衛として留め置かれている。
つまり、ラルフが近衛の制服を脱いだ以外は、なにも変わっていない。
そして、しかめっ面のクラウスに「ローザリンデと婚約します」と言い放ったラルフは、そのまま別邸に居座っている。
クヴァンツ侯爵家は侯爵夫人の指揮のもと、瞬く間に形式を整え、晴れてラルフは大公女の婚約者の身分を手に入れた。
ふたりで過ごす時間も増え、この日も温室でエマが用意したお茶を飲みながら、午後のひと時を過ごしていた。
「好きよ。こちらに来てからは飲む機会はなかったけれど」
ワインが大好きな冴子を思い出す。二十歳の誕生日に、冴子と由香里と一緒にはじめてのワインを飲んだ。数か月しか経っていないはずなのに、もう懐かしい気持ちになっている。
どこか遠くを見やる美晴の様子に、片方の眉を少しだけ動かしたラルフは、話を進めた。
「私のお祖母様の実家がワインの名産地でね。お祖母様は、昔ながらの葡萄踏みがお気に入りだったのだけど、最近は精霊石を使った機械でワインを仕込むようになって、葡萄踏みは行われなくなってしまった」
「葡萄を踏むの?」
「そう、昔はそうやってワインを仕込んでいたそうだよ。でもそれがなくなって、お祖母様はとてもがっかりしていた。だから、お祖父様が祭りにすると言い出した」
「お祭り? お祖母様のために?」
「十年くらい前かな。お祖母様のために葡萄酒祭りをはじめて、葡萄踏みを催しにしてしまった」
我が家は代々愛妻家なんでね、とラルフは笑った。
愛する妻のために祭りを起こす、貴族の道楽は規模が違うわ、と美晴は思ったが顔に出ていたらしい。
「美晴も叔父上にお願いしたら、来年からリューレスブルクで林檎祭りがはじまるよ」
「!」
くっくっと喉の奥で笑いながら、ラルフは人の悪い顔を見せる。
「貴女のお父上は、我が家とは比べものにならないほどの権力者ですよ」
美晴がラルフの冗談を笑えないのは、今のクラウスならやりかねない、いや確実にやってのける、とわかっているからだ。
今更ながら父親としての義務感に目覚めたクラウスは、美晴が求めるものはすべて与えようとする。
つい先日は美晴がアンティリア語を習いたい、と言うと国王にも進講するほどの学者を呼び寄せようとした。
そんな大学者の講義を受けられるような状態ではない、と説得し家令のハンスに文字から教えてもらうことに落ち着いたが、それはそれで、今度はなぜハンスなのか自分が教える、と大騒ぎであった。
美晴もクラウスの前では、うかつに興味を示さないように気をつけるようになった。
「その祭りが来月なのだけどね、クヴァンツ侯爵家の人間は可能な限り参加する。美晴も私と一緒に行かないか? ワインは飲み放題だし、食べ物も美味しい」
「……行く」
「よかった。お祖母様が喜ぶよ。私が大公女殿下と婚約したと聞いて、はやくお会いしたいとお願いされていたんだ」
こうして、美晴はアルンシュタット伯爵領のワイン祭りに招かれることになったのである。
「当主のエルネスト・グスタフ・アルンシュタットです。この度のお運び、誠にありがとうございます。何分田舎で行き届かぬこともあろうかと思いますが、お寛ぎいただけるよう努めます」
当代アルンシュタット伯はクヴァンツ侯爵の弟、ラルフの叔父にあたる。黒褐色の髪に緑の瞳、と色合いは異なるが兄に似た風貌である。背が高く、人好きのする笑顔だが、緊張は隠せない。
「まあ、エルネスト、堅苦しい。そのようなことでは羽を伸ばしていただけないでしょう」
エルネストの後ろから、満面の笑みが可愛らしい小柄の老婦人が声をかける。
金の髪の半ばが白くなっているが、それが返ってきらきらしい。目尻には皺が刻まれ、彼女がその人生の大半を、笑顔で過ごしてきたことを表している。
そしてその瞳は、磨き上げられた美しい紅玉の色に輝く。
ラルフの祖母、ユリアーネ・アントイネッテ・クヴァンツである。
「ローザリンデ様、ラルフがお世話になっております。祖母のユリアーネ・アントイネッテです。ユリアーネとお呼びくださると嬉しいですわ。さあ、おつかれでしょう。大公様のお邸に比べると小さい邸ですが、その分気兼ねなくお過ごしくださいませね」
貴人への挨拶としては、あまりにも親しげな様子に、周囲は慌てるがユリアーネはどこ吹く風だ。それを見て喉を震わせているラルフを横目に、美晴はユリアーネに笑みを返した。
「ありがとうございます、ユリアーネ様。楽しみに参りました。お世話になります」
ユリアーネは目尻の皺をさらに深くして、にっこりと顔をほころばせた。
応接室へと通された美晴は、ラルフと向かい合ってお茶を飲む。荷物の片づけはエマや伯爵家の使用人に委ねる。
貴族は世話をされることも仕事である、と理解はしていてもいまだに落ち着かない。
しかし、大公邸で彼らの仕事に少しでも手を出そうものなら、アルマから懇々と説教をもらうことになるのだ。
扉を叩く音にラルフが応じると、部屋に入ってきた老紳士の姿に美晴は目を奪われた。
丁寧に撫でつけられた白髪は銀髪のようにも見え、その瞳は濃い青玉の色。瞳の細かな色合いを除けば、その顔立ちはラルフにそっくりだ。
ぱちぱちと瞬きを繰り返して惚ける美晴に、その人は優しく、しかし威厳を保った笑みを向けた。
「もうお祖母様が挨拶されましたから大丈夫ですよ、お祖父様。ローザリンデは堅苦しいことに慣れていませんから、気安くなさってください」
老紳士、ラルフの祖父は孫の無礼に苦笑しつつ、美晴に近寄ると騎士の礼をとった。美晴はその動作にはっとして立ち上がり、ぎこちなく右手を差し出して口づけを受けた。
「ラルフと婚約してくださったこと、あらためてお礼を申し上げます。これになにかご不満がおありでしたら、すぐにお知らせください」
いつでも躾直しますから、と笑う老紳士はアルベルト・エーリッヒ・クヴァンツ、先代のクヴァンツ侯爵である。
目の前でお茶を飲むアルベルトとラルフを交互に見比べて、美晴は思ったことを素直に口にした。
「ありがとうございます、覚えておきます。それにしてもお祖父様とラルフは、本当によく似ておられますね」
アルベルトも楽しげに眉を下げながら、耳の上を指さした。
「そう、若い頃は私もエルネストのような髪でしたが、今はこのように。色合いまで同じになると、より似て見えるようですな」
「おかげで私の顔はお祖母様のお気に入りだよ」
「顔は?」
「孫を分け隔てする人ではないからね」
わずかに不満気なラルフに、アルベルトは笑いを噛み殺している。
「孫はどの子も皆可愛いですよ。ただ、ラルフは若い頃の私にそっくりなので、妻に顔を見せろと言われることが、ほかの子より多いようですな。子どもなら喜んでやってくるでしょうが、これの歳ではそうもいかない」
「文字通り私の顔が見たいのだよ、お祖母様は」
私としても少し複雑な気分です、とアルベルトは笑い出した。
「ユリアーネ様のお気持ちもわかりますわ。こんなにそっくりなのですから。それに、ラルフの瞳はちょうどおふたりを合わせた色ですものね」
「よくお気づきで。それもお気に入りの理由ですよ」
アルベルトの照れた様子に、美晴はなるほどかなりの愛妻家ね、と納得した。
「今回はローザリンデ様をお連れしたい気持ちが勝ったようで、なによりです」
「お祖父様!」
焦るラルフの耳が赤くなっているが、気づいたのはアルベルトだけであった。
「……本当によかった。私は大公妃殿下にお目にかかったことはないのですが、心より感謝申し上げております。あの折、私は特に体調を崩して家人に心配をかけましてな。お礼を申し上げる機会を得られればと思っておりました。同じ思いを持つ者はこの国に数多おりましょう」
深い青の瞳に、美晴は吸い込まれるような心地になる。
「こちらで起こったことを、なにも知らずに育ちましたから、本当に母の話なのか、とくすぐったいような気持ちもします。でも、いろんな方から母のことを聞くことができて嬉しいですわ。ありがとうございます」
アルベルトは包み込むような大らかな表情でわずかにうなずいた。
晩餐はぜひ一緒に、と言い置いてアルベルトが席を立つと、入れ代わりに伯爵家の執事が入ってきて美晴を客間へと案内する。
ラルフは当たり前についてくるが、宿泊するのは当然別室である。
邸の貴賓室へ入ると、目の前には大きな窓から西陽が差し込んでいた。美晴が窓に近寄ると、眼下には葡萄畑が広がっている。葉の間から、ところどころに紫紺の実がのぞいている。
「すごい! まだ収穫前なのね」
「葡萄は収穫したら、すぐにワインの仕込みにかかる。明後日は朝からこの葡萄を収穫して、昼過ぎから葡萄踏みだ。領内のほかの畑はもう収穫は終わっているはずだ」
アルンシュタットのワイン祭りは、五日間にわたって行われるが、葡萄踏みは四日目だ。
最初の三日間は、もともと領民が行なっていた収穫祭の規模を大きくしたものである。最終日にはワインの品評会があり、今年の初搾りのワインと昨年のワインが振舞われる。
美晴は三日目の催しや屋台を見て回り、明後日はもちろん葡萄踏みに参加する。
「……ユリアーネ様のための葡萄畑ということね?」
ラルフが、目をまるくする美晴の隣に立つ。
「まあ、そうなのだけど、葡萄踏みの後にちゃんとワインにして売り出している。昔ながらの製法の特別製とうたってね。お祖父様がエルネスト叔父上に命じてはじめたことではあるけれど、叔父上はあれでなかなか商才のある方でね。どうせなら盛大な祭りにして観光の目玉にしようと、本気で取り組んで、成功していると言っていいと思うよ」
美晴の前では固くなっていたエルネストであったが、領主としての手腕は確かである。両親のわがままを叶えるにあたり、ただの親孝行の域を超えた成功を収めている。
「クヴァンツ家の方々はいつでも本気なのよね。それにしてもお祖父様は本当に愛妻家ね、ユリアーネ様もラルフの顔がお気に入りだなんて」
美晴の笑い声に、エマも口を挟む。
「お見かけしてびっくりしました。大公様とお嬢様もよく似ていらっしゃると思っていましたけど、それ以上ですね」
「将来はああなるのかと思うと、なんとも言えない心境になるよ」
小さなため息とともに吐き出したラルフの言葉に、エマが被せる。
「素敵じゃないですか。あのお歳であんなに格好良い紳士はなかなかいらっしゃらないですよ。ラルフ様がああなれるかはわかりませんけど」
「どうして? そっくりなのに」
美晴が首をかしげると、エマはくっきりとしたえくぼを刻む。
「殿方のお顔には生き様が現れるのだそうです。ですから、先代侯爵様のようになれるかどうかは、ラルフ様の今後の行い次第ですよ」
「そうなの? 残念だわ」
「……仮にも婚約者に、酷い言われようだな」
笑い声をそろえる美晴とエマに、ラルフは顔をしかめた。
「でも私たちも同じかもしれないわね、エマ。なかなかユリアーネ様のような歳のとり方はできないと思うわ」
「それは確かにそうですね」
「アルベルト様が愛妻家なのもよくわかるわ。あんなに可愛らしい奥様だもの」
「お互いに一目惚れした恋愛結婚だったからね」
身内の話に気恥ずかしさを覚えたラルフは、つい口を滑らせた。しまった、と思ったときには美晴とエマの爛々とした視線が突き刺さっていた。
「なにそれ! 聞きたい!」
「侯爵家で恋愛結婚なんて! 本当ですか!」
ふたりの予想以上の喰いつきに、ラルフの頬が思わず引きつる。
「いや、お祖母様に聞けば喜んで話してくれるよ……」
それで許されるはずもなく、ふたりの視線は緩まない。
「うん、だからね。お祖母様はアルンシュタットの、当時はまだ子爵家だったのだけれど、一人娘で婿をとるはずだった。お祖父様は当然侯爵家の跡取り息子で、家格の面でも結婚できる間柄ではなかった」
美晴とエマが、顔を見合わせて興奮している。ラルフは仕方なくため息混じりに続けた。
「それなのに、たまたま葡萄の収穫を見学に来たお祖父様が、葡萄踏みをしていたお祖母様に一目惚れしてしまった。で、あれこれ画策して出会いの場を作ってもらったら、お祖母様も一目惚れした、ということらしい」
ユリアーネから、うんざりするほど聞かされた話を、ラルフはかなり省いて話す。
「いろいろあったらしいけれど結婚して、幸い男児がふたり生まれたから、エルネスト叔父上がアルンシュタットを継いで、まるく収まった、と」
「あれこれや、いろいろ、を聞きたいのに!」
「だから、お祖母様に聞けばいいだろう。身内の色恋の話なんて興味ないから、知らないよ」
口をとがらせた美晴を、ラルフは軽くいなした。
しかし、美晴はその日の晩餐の席で、ラルフの言葉を実行した。
美晴はアルンシュタット自慢のワインと、ユリアーネが嬉々として語る恋物語を堪能し、ラルフは何度目になるかわからない祖父母の馴れ初めを、居心地が悪そうな祖父と並んで聞く羽目になったのである。
ユリアーネは70歳くらいです。




