44.手紙
クラウスが足もとから拾った小石は、美晴の目の前で細い暗闇に飲み込まれた。
なにもない空間にできた裂け目のような暗闇は、まぶたが閉じるようにやんわりとふさがる。
送り先を指定せずに異世界へ送った石は、どこにたどり着くか知れない、とクラウスはいう。
「今ならまだ、私が送ったときの魔力の流れが残っているだろう。相手が待っているのなら、なおのこと、その流れを使って近くに届けられるかもしれない」
「お父様の精霊石は、部屋に届いていたときと、私の目の前に届いたときがありましたけど、場所を指定できるのですか?」
文乃が受け取ったものは、部屋に届いていたが、最後に届いたとき、美晴は花島家にいた。
「最初は、アヤノが帰ったときの魔力の流れにのせて送った。翌年からは同じ流れを使って、さらに『アヤノが受け取れる場所へ』という条件づけをした。あちらでいきなり精霊石が現れたら、困ることもあるかと思ってね」
クラウスの思いがけない気遣いに、美晴は笑みを浮かべる。
「人がいるところであれが届いていたら、大騒ぎになって大変だったと思います」
クラウスも頬をゆるめたが、不意に視線を落とした。
「そうだろう、アヤノに叱られると思ったのだ。……二年前、私は魔力の続く限り何度も送ろうとした。だが精霊石はまったく動かなかった。それまで届いていたはずのものが送れない、アヤノが受け取れなくなった、とわかった」
文乃は三年前に亡くなった。最後に文乃が精霊石を受け取ったのは、亡くなる四か月前であった。それから半年以上、クラウスには文乃の死を知ることはなかった。
美晴には、文乃の死をともに悼み、支えてくれる人たちがいた。
クラウスには、文乃になにかがあった、としかわからなかった。
最悪の事態を想像したが、それを受け入れたくはなかった。クラウスだけでなく、アンティリアで文乃を待つ皆が、同じ思いを抱いていた。
クラウスに文乃の死を受け入れろ、と言う人などいるはずがなかった。
美晴が現れるまで、誰もが一縷の望みに縋っていた。
――私が来たから、お母さんが亡くなったことが確かになってしまった。……それを受け入れてくれた――
「翌年、……去年だな、それと今年は私の血を使った」
「血、ですか?」
「血は最も強く魔力を伝える。私の血が流れる娘のもとへ、と。去年は送れなかったが、精霊石は動いて扉へと向かい、その手前で止まった」
クラウスが顔を上げて、美晴の頬に手で触れる。
「あちらに私の娘がいる、だが、精霊石は受け取れない」
「私が忘れていたから……」
「まさかアヤノが、そのようなことをしていたとは、考えもしなかったからな。状況がわからないし、心配するしかできない。諦めきれず今年も送った。今さらだが、精霊石が消えたときは、本当にうれしかった。届いたのだと」
クラウスの手が、美晴の頭をなでる。美晴は涙をこらえて笑顔を保つ。
クラウスは確かに、美晴に宛てて精霊石を送っていた。
「……ありがとうございます」
「だが、アヤノのことを思うと、それ以上を考えられなくなった。すまなかった」
美晴が首を横に振ると、クラウスの手が再び美晴の頬をなでて涙をぬぐった。
「……毎年、とてもうれしそうにしていました。お父様からの贈り物だと」
「記憶が解けたのか?」
「まだすべてではないと思いますが、少しずつ。『お父様の瞳の色は素敵でしょう?』とか、『とっても強くて格好いい人よ』とか。誕生日の度に、のろけていたことは思い出しました」
美晴がからかうように言うと、クラウスも笑みをつくった。
「私にそのように言ってくれたことは、なかったぞ」
「私にもです。普段はほとんど誉めてくれないのに、そのときだけ。『美晴はお父様にそっくりで本当に可愛い』って。ずるいでしょう? その後すぐに『今は忘れていてね』と言うのに」
夜空に浮かぶ星の瞳がにじんでいる。
こうやって、愛する者を失った事実を少しずつ受け入れていくのだ。父と娘は口にせずとも、同じ思いを分かちあえる。
涙をぬぐった美晴が、由香里への手紙を取り出した。
「これを送りたいのですけど。お父様が送ってくださっていた場所に届けば大丈夫です」
「自分の魔力を書簡にまとわせることはできるか?」
「できる、と思います」
身の内にある魔力の流れを、集めるよう意識する。右手に少しずつ虹色の光が集まる。光が大きくなり過ぎないように気をつけながら、封筒にかざした。
ふわり、と封筒は光の球に取り込まれて浮かぶ。クラウスは目を細めて、うなずいた。
「よくできた、それでいい。先程のように私が扉を穿つから、そのまま流しなさい。受け取るべき人に呼びかけて」
『王家の泉』の上で、クラウスが空を切るように右手を斜めに振りおろす。
虹色の霧の上に、小さく黒い裂け目が浮きあがる。
美晴は光球に浮かぶ手紙を、暗闇の入り口へ近づけると、親友に呼びかけた。
「由香里、私は大丈夫よ。こちらで幸せになるから」
虹色の光球が、ふわりと手を離れてゆっくり、暗闇へ吸い込まれていく。
奥深くへ真っ直ぐに流れていく光が見えなくなったとき、黒い裂け目は再びやんわりと閉じた。
「大丈夫だろう、惑うことなく流れていった。きっと正しくたどり着く」
クラウスが美晴の肩に手をあてる。大きな掌は、ずっと求めていた父の愛情を伝えてくれた。
「別邸で結界を張った、と聞いたが」
洞窟の外へ向かいながら、クラウスが美晴に問う。
「ああ、えっと、本当に無意識にできてしまったのです。そうしようと思ってやったことではなくて。お父様には言わないで、とラルフにはお願いしたのですが……」
クラウスは美晴の背中をぽんぽんと叩きながら、ばつが悪そうに笑った。
「ラルフを怒らせたのは私だ。……ミハルの器は私と同等だろうな。簡単に操れるものではないから仕方ないが、無事でよかった。その割に先ほどは上手く扱えていたな」
「無意識に魔力を使ってしまうのは危険だから、とラルフが練習させてくれました」
「そうか。短い間にあれだけできるようになったのなら、すぐに使いこなせるようになる。今後は私が教えよう」
ラルフには使えない魔法も多いから、とクラウスは言うが、そこに父親としての自負心が含まれていることに、美晴は気づかない。
ラルフとて貴族の中でも指折りの器を持っている。王族としても異例の器であるクラウスと、並ぶものではないが。
「今後……。領地へお帰りになりますか?」
美晴の気がかりは、これからの生活のほうであった。
美晴の滞在する館は王都の別邸、クラウスの本邸はリューレ大公領の城である。
「そうだな、しばらくは別邸で過ごそうか。アヤノはリューレスブルクの城に行ったことはあるが、暮らしていたのは別邸のほうが長い。アヤノがいた頃のものは、すべてそのままにしてある。今の時期には領地持ちの貴族は皆、本邸へ帰っていることだし、王都にいても煩わされることもないだろう」
「はい!」
クラウスはまぶしそうに目を細める。
「ミハルの誕生日はリューレで祝おう。春には林檎の花が美しく咲き乱れる」
「林檎ですか?」
「そう、リューレの名産だ。赤いつぼみから白い花が咲く」
「私、林檎の実しか見たことがありません」
なら楽しみにしているといい、とクラウスが再び笑みを見せると、洞窟の入り口に戻ってきた。
外でラルフが待っていた。口もとに拳をあてているが、上がりきった口角は隠せていない。
「おかえりなさいませ」
「ありがとう、ラルフ」
美晴が礼を言うと、クラウスは不機嫌をあらわにしたが、ラルフは気にするそぶりもない。
美晴に笑顔を向けると、クラウスをさらに不愉快にすることを言い放った。
「叔父上、入り口の封印はお願いしますね。ああ、ローレンツが馬をとりに行きましたので、そちらで別邸へお戻りください」
「お前は、私に術士の仕事をさせるのか」
「いつもご自身でなさっていたのでしょう? 封印を解いたのはローザリンデ様ですから、後始末はお父上にお任せしますよ。さあ、行こう」
手を差し出したラルフに、美晴は呆れながら口を開いた。
「後から封印できる人が来るって」
ラルフは人の悪い笑みを作って、クラウスを指さした。不敬にもほどがあるが、ラルフがわざとやっていることはわかっているので、クラウスも意に介さない。
「私にそのような態度をとるのはお前だけだよ」
「そうでしょうとも、貴重な人材ですから大事になさってください」
図々しく言ってのけるラルフを、クラウスは諌めることはせず、美晴に向き直る。
「少し時間がかかるから、ラルフと先に帰っていなさい。私も別邸へ帰るから」
美晴はクラウスに笑みを向けると、お待ちしています、と言ってラルフの手を取り馬に乗せてもらう。
「オリヴァーとローレンツは大公殿下の護衛を。叔父上、少し走らせて来ますから、先にお帰りください。では」
言い切るとすぐに、ラルフは馬を走らせた。美晴がとまどう間に、クラウスの非難の声が遠ざかる。
「舌を噛むといけない。口を閉じていて」
美晴が唖然としているうちに、洞窟は見えなくなっていった。街道を湖に沿っていくと、やっと馬の歩をゆるめた。
「どこへ行くの?」
ようやく口を開いた美晴は、不機嫌だ。
「見せたいものがあってね。この先の洞窟の対岸からよく見える。今日ここでしか見られないから」
「前から思っていたけど、ラルフはどうしてお父様にも陛下にもそう強気でいられるの? それに、普通は知らないはずのことも、よく知っているのはなぜ?」
ラルフは王妃の甥とはいえ、侯爵家の三男である。国家機密にかかわれるような立場ではない。
近衛騎士としても第二小隊の隊長、決して中枢に身を置いているわけではない。
それらの事情を知らない美晴からみても、ラルフの言動も、それを許している国王たちの態度も不可解だ。
ラルフは美晴の問いにはこたえず、黙ったまま馬を進めた。
「ローザリンデに話したいことがある」
目的地に着き馬を下りると、ラルフが言った。美晴も手を伸ばして、ラルフの腕を頼りに砂に足をつける。
泉の洞窟の対岸には、湖の波が打ち寄せる砂地が広がっている。
洞窟のある丘の岩肌が小さく見え、通ってきた道の反対側には、高い木々の森が続いている。虹色の霧は森の中から湖面へと流れてくるが、美晴の足もとよりも随分手前で大気に溶けて消えていく。
美晴はラルフの腕に手を置いたまま、日に照らされる湖面の霧を見つめた。




