43.父の悔恨
「だめだ! 基点も定まらないのに、扉を開いてはならない。何処とも知れぬ異世界を彷徨うことになる!」
突然現れたクラウスに、美晴は驚く間もなく抱き締められた。その腕が震えていることに気づくのに、時間はかからなかった。
「お父様?」
「私が悪かった。どうか、もうどこにも行かないでくれ! 本当はそう言いたかったのだが、私にはそれを願う資格はないのだと……」
一気にまくし立てるクラウスの胸を軽く叩いて、美晴は顔を上げた。ずっと会いたかった父の、涙に濡れた顔がそこにある。
「お父様、私はどこにもいきませんよ? なぜそんなことを仰るのですか?」
クラウスは美晴の様子を確認すると、片手で自らの顔を覆って盛大にため息を吐き出した。
「ラルフ!」
ラルフはクラウスの取り乱し様に、満足そうに何度もうなずいて笑っている。
「嘘は言っていませんよ。だいだい、叔父上が私の連絡を無視なさるからですよ。私はエッカルトに話しただけですからね」
ふたりのやり取りを聞いた美晴も、ラルフをじっとりと睨む。
「エッカルトになにを言ったの?」
「姫君がお父上に会えなくて、とても落胆しておられる。『王家の泉』に案内して欲しいと仰るので、お連れすることにした、と」
「それで?」
「私はそれだけしか言っていない。だが、エッカルトも姫君をとても心配していたから。心配のあまり、色々考えてしまったかもしれないね」
クラウスは美晴からゆっくり手を離すと、ラルフに向き直る。
「……もういい。ラルフ、しばらくふたりにしてくれ」
「承知しました」
ラルフは美晴のほうを見ると、ふわりと柔らかい笑みを浮かべる。
クラウスを騙してまで呼び出したのは美晴のためだ、それがわからないほど、美晴も子どもではない。
ラルフが姿を消すと、美晴はクラウスの手を握った。クラウスは指先をピクリと震わせたが、美晴の好きにさせてくれた。
「エッカルトはお父様になにを?」
「ミハルが、帰ろうとしているようだと言ってきた。アヤノを召喚したときは魔女がアヤノの居場所を特定した。帰るときにも魔女がかかわっていたはずだ。だが、目標となる対象がないまま扉を開くと、どこにつながってしまうかわからない。別の異世界に行き着く可能性が高い。だから……」
美晴は両手でクラウスの右手を包む。大きな掌は剣を握るためのものだと、知識のない美晴でもわかった。
「だから、止めに来てくださったのですね。ありがとうございます。でも、私はどこにもいきません」
美晴はもう一度クラウスを見上げて繰り返し、にっこり笑った。
「ずっと私を助けてくれていた母の親友が、ここへ来るときにも手伝ってくれました。その人の娘と姉妹のように育ちました。彼女たちが見送ってくれたときに、約束したのです。必ず連絡すると。だから、お父様が私に精霊石を送ってくださったように、私も手紙を送れないかと思って。それでラルフに連れて来てもらったのです」
クラウスは美晴の手を握り返した。柔らかな白い手は彼の愛する妻のものによく似ていた。
「まんまと騙されたな、ラルフに油断してはならないとわかっているのに。……よかった。あちらにもミハルを大切にしてくれる人がいたのだな。それなのに、呼び寄せるようなことをして、すまない……」
うなだれるクラウスに、美晴は慌てて否定する。
「それは違います。私はずっとお父様に会いたかったのです。母が記憶を閉じていたから、そのことも忘れてしまっていましたけど……。私は母が亡くなってから、自分の居場所を失ったような気持ちでいました」
美晴は全てを正直に話した。クラウスは顔を上げて美晴の言葉に耳をかたむける。
「三年間、寂しいときに家族のように助けてくれる人はいました。それでも、自分がどうしたいのかわからないまま過ごしていたのです。未来を思い描けなかった。だから、お父様が生きていると知って、そこが私の居場所なのかもしれないとも思いました」
純粋に父親に会いたい気持ちだけではなかった。身の置き所を探すためにも扉を開いた、それが美晴の正直な気持ちであった。
「でも、思い出しました。ずっとお父様に会いたかった。いろんな理由も確かにありましたけど、お父様が生きていると知って嬉しかったのです。その気持ちに素直になれなくて、ごめんなさい」
クラウスは右手を美晴に預けたまま、左腕を美晴の肩にまわした。美晴は大きな胸に身を預けた。
「ずっとお父様に謝らなくては、と思っていたのです。……私のために母と離れなければならなかったから。それで、私を受け入れることをとまどっていらっしゃったのでしょう?」
「そんなことはない。ミハルはなにも悪くない」
「ラルフもそう言ってくれました。お父様が気にしておられることは、たぶん私には思いもよらないことだろうって」
クラウスはラルフが気づいていたことに顔をゆがめたが、腕の中にいる美晴には見えない。そして、クラウスは心の内を話すこと決意して、美晴の肩から手を離した。
クラウスの苦しげな表情に、美晴も眉を寄せるが手は離さない。クラウスは小刻み震える口を開いた。
「私はミハルの命を、一度は諦めようとしたのだ」
その言葉は美晴の中にすとんと落ちて来た。そうだったのか、いや、どこかでわかっていたような気もする。
「愚かなことだと思う。だが、アヤノを失うことは耐えられなかった。日々苦しむ彼女を見ていられなかった。まだ見ぬ我が子より、妻の命を優先したいと考えてしまったのだ」
「……それを母には?」
「話す前に消えたが、気がついていたのだろう。その結果、私は妻を失い、娘にも会えなくなった。なんと罪深いことを考えてしまったのか、その報いが私だけではなく、ミハルにまで及んで、母親を亡くしてしまった。だから、ミハルに会いたい思いと、会ってはならないのではないかと……」
クラウスがそこまで口にすると、美晴は彼の口に手をあてて言葉を止めた。
驚いたクラウスは美晴を見つめるが、おとなしく娘の言葉を待つ。
「お父様、私、例の魔女さんに会いました」
クラウスが嫌悪の表情を見せる。そのまま口を開こうとするが、美晴は指に力を入れて押し留める。
「お父様があの人を嫌う理由はわかります。彼女も、嫌われている、と言っていました。でも、私はなにもされていませんし、大事なことを教えに来てくれたのです。教えてもらったことをお話ししてもいいですか?」
クラウスが美晴の指を手に取り、わかった、とうなずいたので、美晴は話を続ける。
「母となにを話したのかをききました。あのとき、母がアンティリアに残っていたら、母の命は助からなかったそうです。私が無事に生まれることも難しくて、唯一、日本に帰れば母子無事に出産できると。母は『帰るしかないじゃない!』と言ったそうです」
クラウスの顔がさらにゆがみ、美しいその瞳から涙がこぼれる。
「……母は魔女さんのことを信用していたのだと思います。自分がどうなっても私が確実に助かるのなら、残ったのかもしれません。ふたりとも危ない、だから帰るしかなかったのです」
「情け無いことだな。アヤノひとりに背負わせて、相談もさせてやれなかった」
「お父様がこのことをもしお聞きになっていたら、どうしましたか?」
「……わからない。私はあの魔女を信用していない。ほかの道があるはずだと、それこそお腹の子を諦めようと言っただろう」
美晴は震えるクラウスの手を握り直す。父の手をやっと掴むことができた、もう離したくない。
「母は帰ることを決めていて、お父様をさらに苦しめたくないと思ったのかもしれません。『人生なにがあるかわからないんだから、自分で決められることは早く決めなさい!』と母が私によく言っていたのですけど」
はじめて、クラウスの頬が少しだけ緩んだ。
「そのようなことを、確かによく言っていたな」
「お父様がまだ生まれていない私より、目の前の母の命を大事に思うのは仕方ないことだと思います。ただ、母はなんとしても子どもを産むと決めていたから」
「私が反対することもわかっていただろう」
クラウスは取り戻せない過去に思いを馳せる。
あのとき、どうすれば彼女を失わずにいられたのか。
「『自分で決められることは』ということは、自分で決められないこともある、ということなのだと思うのです」
美晴の言葉にクラウスは顔を上げ、娘の瞳を見つめる。
「母が亡くなってすぐに私がこちらへ来られなかったのは、私の意思ではそうすることができないように、母が仕組んでいたからです」
「どういうことだ?」
困惑するクラウスに、美晴は丁寧に説明する。
「母はお父様の精霊石と陛下のペンダント、そしてアンティリアへ渡る方法を書いた手紙を鍵のかかった箱にしまって隠していました。さらにその鍵を、やはりなにも知らせずに親友に預けていました。私が探していたら渡してほしい、探すことがないなら捨ててほしいと。今年の春にそれをみつけました」
クラウスが大きく目を見開き、美晴の手を強く握り締めた。
「それは……」
「私はお父様に会いたいと思っていました。会える方法を見つけたからここに来ました。母はそれがわかっていたから、私がなにも知らないまま、あちらで生きる可能性も残したのだと思います。魔女さんが教えてくれたことも、同じなのかもしれません」
クラウスには美晴の言いたいことが、今ひとつわからない。アヤノの意図も理解しがたい。
「アヤノは私のもとへ帰る気がなかったのか?」
美晴は大きく首を横に振って否定する。
「それはありません、絶対に。ずっと会いたかったと、私をお父様に会わせたかったと、それは本当だと思います。ただ……」
美晴は大きく息を吸って呼吸を整える。クラウスを見上げて、涙をこらえる。
「魔女さんは、私にははっきり言わなかったのですが、母には伝えたのだと思います。アンティリアには戻れないと」
「魔女は、なにを言ったのだ」
「母と私がふたり一緒にアンティリアへ渡るための力は、私が十八にならないと得られない。そのときに母も渡れるかはわからないし、魔女さんには日本のことを知ることはできない。私にはそう言いました」
クラウスは唇を噛んで、魔女に対する悪態を呑み込む。
「母は自分が帰れないと知っていたから、私がアンティリアへ行くかどうかを運に任せたのではないかと思います。魔女さんが教えてくれることも、自分で決められないことばかり。でもなにも変わることがないときには知らせない、とも言っていました」
クラウスがゆっくり美晴の頭をなでる。ぎこちない手つき、そこには確かに愛情がある。
「少なくとも、魔女はミハルの命を救ってくれたということか」
「私に母と過ごす時間も与えてくれました。でもお父様からは母を奪ってしまいました……」
「それはミハルのせいではない。誰にもどうにもできないことは確かにある。私はアヤノを失ったが、アヤノへの愛情まで失ってはいない。ミハルのことも愛している。だが、ミハルはそれを受け入れてくれるか? 一度は諦めようとした薄情な父親だ」
クラウスの言葉は二十年分の悔恨を含んでいる。美晴は自分からクラウスに抱きついた。
「三年前にここへ来ていたら『お父様は酷い』と言ったかもしれません。でも、今の私はお父様がどれだけ苦しんでこられたのか、少しはわかるつもりです。母の仕掛けが成功したということでしょう?」
「ありがとう。……すまなかった」
美晴は涙をぬぐって笑う。クラウスの腕の中はあたたかく、美晴はやっと安心した。
「……でも、そうですね、こちらへ来てからのことはちょっと怒ってますよ」
――お父様には、しっかり甘えなさい。遠慮なく。二十年分のわがままを言っていいのよ――
美晴は魔女が言っていた「大事なこと」、冴子の言葉を噛み締める。
あらためてクラウスに向き直ると、美晴は言った。
「母の親友が言ってくれました。『二十年分のわがままを言っていい』と。きいてくださいますか?」
クラウスもやっと笑みを見せて、うなずいた。
「なんなりと」
「私はお父様と一緒に暮らしたいです」
「……ありがとう」
クラウスが抱えていた、美晴に対する罪の意識が消えることはないだろう。それでも、これからの美晴の未来に、クラウスもともに生きていくことはできる。
傷を舐め合うのではなく、思い出を紡いでいくために。