42.『王家の泉』
翌朝、『王家の泉』へ騎馬で向かうことになった。馬車を用意するというラルフに、美晴が馬に乗せて欲しいと頼んのだ。もちろん、ひとりでは乗れないので、後ろでラルフが手綱を握っている。
よく晴れた初秋の陽ざしの下、葦毛の美しい馬の上で、頬をすり抜ける風が心地よい。
アンティリアに来たときと同じ様に、護衛の騎士がふたり、少し離れて並走している。
「この石は宝石? それともラルフの精霊石?」
ラルフが騎士服ではないときに着けているタイピンには、彼の瞳と同じ色の石がついている。
「これは紫水晶だな。適当なものを身につけると、母上がうるさくてね」
頭の上から響くラルフの声がくすぐったいが、馬車でふたり向かい合うよりも、このほうが落ち着くような気がする。
「フリーデリケ様からいただいたドレスやアクセサリーは、どれも素敵だったもの。ご自身の好みではなくて、私に似合うものを選んでくださったのよね」
馬に乗ると言う美晴に、エマが出してきた乗馬服もフリーデリケからの贈り物であった。
濃いグレーのジャケットに目立つ装飾はないが、艶が控えめな銀糸で、美しい刺繍の縁取りがなされている。侯爵夫人は、ドレスでなくとも妥協はしない。おかげで今日は馬に跨って乗ることができた。
「でも紫水晶って、こんなに青っぽいものなの? あちらでは文字通り『紫』のものしか見たことがなかったけど」
美晴は少し首をかしげて、ちょうど目の前にくるラルフの白いタイに輝く紫水晶を見る。
「こちらでも同じだよ。これは少し珍しいものだね。私の瞳は『氷の精霊』の加護のほうが強いから、このような色なのだけど。たまたま領内の宝石商にこれが入ってきてね、母上が気に入って買い上げたというわけだ」
「ラルフのために、と思われたのね。やっぱりお優しい素敵なお母様ね」
ラルフは幼い頃の記憶を振り返りながら、微笑んでうなずく。
「我が母ながら、いつまでも少女のようで、とても息子が三人もいるとは思えない人だね。孫もいるのに」
「ラルフが一番下ということは、私の母より歳上でしょう? とても見えないわ」
石畳の道から森の中へ入る。以前は濃い緑であった木々の葉は、ところどころ黄色を帯びている。
季節はゆるやかに移ろいつつある。
少しすると湖が見えてきた。湖面を漂う虹色の霧は、対岸から寄せてくる細波に乗って、少しずつ色を失っていく。陽の光に照らされて美しく煌めくそれは、大きく広がったベールのようだ。
「きれい……。でも、前に見たときはもっと濃かったように思うけど?」
ラルフは霧が流れてくる対岸をにらむ。
「そうだな、確かにあの日は今日より多かった……。おかしいな。ローザリンデの器に相当な量が注がれて、むしろ少なくなっていてもおかしくなかったのに」
「そんなに簡単に増えたり減ったりするものなの?」
「泉から流れ出す精霊の力は、ほぼ一定だ。たまに魔術士などが、魔力を補ったり、精霊石をつくったりするためにやって来て、一時的に少なくなることはあるけれどね。それでも、一日も経たずに元に戻る。霧が見えなくなっても、精霊の加護の力は大気に溶けていくしね」
美晴も対岸に目を向ける。霧が立ちのぼっているように見える。
あの日、目を覚ますと濃い霧の中にいた。自分の器にそれが注がれた実感はなかった。
「洞窟の中で気がつくまでは、眠っていたと思うけど、こちらに来てから意外と時間が経っていたのかしら」
「いや、私は陛下からご連絡をいただいて、すぐに大公邸を出発したから、それほど待たせてはいないと思う」
「私が来たことがすぐにわかったということ?」
美晴の背に、ラルフがうなずく動きが伝わる。あらためて背中を預けていることに、くすぐったいような気持ちになる。
「あのときは気にかけておられたからね。『王都の魔力の流れにひずみが生じた、おそらく扉が開いた』と。場所もここだと仰った」
クラウスや美晴の器のほうが大きいとはいえ、国王も王太子も王族の器をもっている。さらに、国王は文乃の召喚と帰国、どちらにも居合わせた唯一の人だ。
異世界の扉が開く魔力の流れを、身をもって知っている。
「王族の方々の器は特別だから、私や魔術士などとは魔力の使い方が違うのかもしれないな。……あるいは、あの魔女の働きかけがあったか」
「まあでも、わからないことは、考えても仕方ないわね」
美晴の声に微かな笑みを感じて、ラルフも笑った。
「随分と開き直ったものだね」
「この二か月足らずで、私の人生は変わりすぎたもの。一度に全部のことは考えられないわ。ひとつひとつ片づけていくしかないと思って」
美晴がゆっくり振り返って顔を上げると、思っていたよりも近くにラルフの顔があった。
驚いてうかつな表情になりそうなところを我慢する。急いで前に向き直るが、顔が熱い。
背中にラルフが笑う振動が伝わる。
「私には気にしなくていいと言っただろう?」
「もう、からかわないで!」
美晴は軽く勢いをつけて、背中をラルフの胸にぶつけるが、びくともしない。そのまま、湖の霧をながめながらラルフの胸に身体を預けた。
やがて小高い丘の麓の行き止まりにたどり着く。目の前は岩壁である。一枚岩ではなく、よく似た色合いの大きな岩がいくつか積み重なっている。
「入り口がない……」
アンティリアへ来たときには、入り口には艶のある黒い石があった。門のようになっていたその場所には、穴はなく大きな岩がはまっている。
色は黒であるが艶はなく、まるで大きな空の石のようだ。
ラルフが先に馬から降りて、手を差し伸べる。その手を取りながら美晴は、どういうことか視線で問う。
ラルフは美晴を抱えるように馬から降ろすと、ゆったりと笑う。
「ここは『王家の泉』だ。ほかにも『森の精霊』の泉や『水の精霊』の泉が各地にある。多くはないけれどね。それぞれの『精霊の加護』の力が湧き出しているが、虹色の力が湧くのはここだけだ。当然精霊の加護の力は濃い。二十五年前にこの泉が暴走した理由は、未だにわからないそうだけれど、同じように蓋が破れたら、また同じことが起こるかもしれない」
入り口は常に封印されている。それは二十五年前も変わらない。だからこそクラウスは、あの危機に魔女が関与していたのではないか、と疑っている。
「私が来たときは艶のある石の門だったわ」
「封印を解いたときはそうなるね。泉の側で目覚めたのだろう? 外へは一本道だけど、すぐにわかったか?」
美晴はここへ来たときのことを思い出す。もうかなり前のことのように感じる。
「目が覚めて、……ペンダントがあるか確認して、安心したら、霧の光とは違う外からの光に気がついたの。それで、その光のほうへ歩いて出て来たのよ」
「なら、君が来た時点で封印を解いたのだろうな、無意識に」
ラルフは面白そうに笑っているが、美晴の頬は引きつる。
護衛の騎士たちも馬を降りたところで、ラルフは自分の馬を預け、待っているように伝える。
「じゃあ、まずは練習の成果を見せてもらおうかな。封印を解かないように触れてみて?」
美晴は無表情でラルフに向き直ると、ふぅと息を吐き出して岩壁に向かった。
――これは岩、開かないただの岩! ――
黒い岩肌に触れると、ひんやりと冷たい抵抗が掌に伝わる。できた! とほっとした瞬間、パキッと小さな音がして、雲母が剥がれるように目の前の岩がバラバラと落ちながら消えていった。
「惜しいな、もう少しだったね」
背後からラルフの声が近づいてくる。どの様な表情をしているか、見なくてもわかる。美晴は悔しさをこらえてうつむくが、すぐに顔を上げた。
艶やかな黒い石に縁取られ、ぽっかりと洞窟が開いている。足もとにはゆっくりと、虹色の霧が絨毯のように広がってくる。
「封印を解くほうが、簡単なのだからなあ。私が一か月かけて習得した魔法を、まあいとも簡単に。護衛騎士としてはちょっと情け無い気持ちになるよ」
隣に来たラルフが呆れたように、しかし少し眉を下げている。
「王族の魔力だから、とかではないの?」
「それもあるけれど、なら王族に護衛は必要なくなるだろう?」
「私、剣は振れないわ」
「剣にはそこそこ自信がありますから、お護りしますよ、姫君。さあ、行こうか」
笑顔に戻ったラルフは美晴の背中を軽く叩いた。
洞窟の中へ足を踏み入れると、ラルフが右手を上げて指を鳴らした。指先からラルフの紫の魔力が、洞窟の奥へと流れていく。魔力が通り抜けると壁面に青の灯りが点々とともる。
「灯りがあったのね。……なんで、これは点けられなかったのかしら」
「霧の光である程度は見えるからかな。真っ暗で困っていたら、点いたかもしれないね。入り口は、『外に出たい』と思っただろう?」
「思ったかどうかも覚えてないわ」
美晴はまた無表情になるが、ラルフはいつものように喉の奥で笑いを噛み殺す。
「無意識は怖いな。まあ、こんな灯りがある泉はほかにはないけどね」
――ここは叔父上が毎年いらっしゃるから――
最後の言葉をラルフは呑み込んだ。
「そういえば、私が来たときに解いた封印はどうしたの? ラルフはなにもしなかったわよね」
「ここの封印は私にはかけられない。陛下が王都の精霊殿にも連絡なさったから、すぐに高位の精霊術士が来てかけ直したよ」
「今日はどうするの?」
「ローザリンデができるだろう?」
「……そんな無責任な」
美晴はさすがに呆れて、ラルフを見上げる。紫の灯りに染まった銀髪は、むしろこの色が本来の彼なのではないかと思うほどに似合っている。
ラルフは紫の髪を、軽くかき上げてこたえる。
「大丈夫だよ。泉に行くことは連絡してあるから、後から封印できる人が来ることになっている」
「そう、ごめんなさい。私は簡単に行きたいと言ったけど、いろいろ準備があるわよね」
美晴の心配は無用のものだと、ラルフは言った。もう何度目になるかわからない。
「ローザリンデのわがままをきくのが、私たちの仕事だ。今日も誰がついてくるのか揉めていたよ」
「どうして?」
「大公邸に残っても暇だからね、それならローザリンデ殿下のお供がしたいそうだ」
ラルフの言葉にも呆れの色がある。美晴も同じ表情をした後で笑いだした。
「騎士が暇なのはいいことなのよね?」
「そうだね、平和な証拠だ。ですから大公女殿下はせいぜいわがままを仰って、我々に仕事をさせてください」
半ば本気のラルフに、美晴はすましてこたえた。
「善処するわ」
足下に流れる霧がだんだんと濃くなる。入り口では足首ほどの高さだったが、膝下の辺りまで上がってきた。その分周囲が明るくなってくる。
少し開けた場所に出るとその中央に、両手を広げたくらいの幅の黒い石が鎮座している。
美晴の腰の高さほどのその石の上には、虹色のプレートがある。石とプレートの間から虹色の霧がゆらゆらと、絶えず流れ出す。
美晴が上からプレートをのぞき見ると、中央には稲妻が走ったような金色の模様がある。
「これが蓋なのね。継いである。そういえば、私が目が覚めたのはもっと手前の洞窟の途中だったわ。どうしてかしら」
「そうだったのか。なぜかな、君はまだ泉を見ないほうがいいということだったのか。偶然か、必然か、まあ考えても仕方ないな」
先ほどの美晴の言葉をラルフが返したそのとき、金剛石の粒を撒き散らしたように鋭い光が空間を支配する。
美晴が思わず目を閉じると、ずっと聞きたかった声が聞こえた。
「ミハル!!」




