41.ラルフと魔女
「魔女が現れた!?」
翌朝、美晴が魔女と話したことをラルフに告げると、予想以上に驚かれた。
「なにを言われた?」
ラルフは険しい表情で美晴の肩をつかんで顔をのぞき込む。瞳の奥に心配の色があることはわかるが、肩に食い込む指の強さに顔をしかめる。
「大丈夫よ。知りたいことを教えてに来た、と言うから母になにを言ったのか教えてもらったの。……ラルフ、痛い」
「ああ、すまない。大丈夫か?」
ラルフが美晴の肩から手を離すと、美晴は不思議そうに言う。
「ラルフも会ったことがあるのでしょう? 陛下が仰った印象とは随分違ったわ。状況が違うから仕方ないのだろうけど」
「……件の魔女に会ったことはないよ。田舎で引きこもっている魔術士に会いに行ったことはあるが」
噛み合わない会話に美晴は首をかしげたが、すぐにその原因に思いいたった。
「ああ、老婆ではなくて今のラルフくらいの歳に見えたわ。長い黒髪に青緑の瞳の綺麗な人。母が帰った後に、……ラルフの様子を見に行ったと言っていたけど」
美晴の言葉に紫水晶の瞳が大きく見開かれる。
「……あの人が、魔女だったのか……」
「先代の国王陛下に話すときには、魔女らしい姿で行ったと言っていたわ。でもどちらも本来の姿ではない、とも」
ラルフはようやく納得して、くすんだ銀髪をかき回して決まりが悪そうにしている。
「そういうことか。まさか同一人物だとは思わなかった。いや、老婆の魔女の話は聞いてはいたが、陛下も叔父上も『忌々しい存在だ』と仰っていたから、結びつかなかった」
ラルフは国王やクラウスから聞いていた魔女と、幼い頃に出会った女性が同一人物であるという事実にとまどう。
「……そうだったのか、まさか、会っていたとは……」
クラウスは、全てがあの魔女によって仕組まれたことなのではないかと疑っていた。
魔女が現れなければ、無理に文乃を召喚することはなかった。クラウスは自らを犠牲にしてでもアンティリアを守る覚悟があったのだから。
しかし、文乃を召喚し、彼女を愛したことでクラウスの人生は大きく変わった。
文乃もクラウスに望まれたことで、それまでの気持ちに折り合いをつけられた。それをまたあの魔女に奪われた、とクラウスは恨んでいる。
クラウスの魔女に対する猜疑心が根深いことを、ラルフはよく知っている。
文乃と暮らしていたときの幸せな様子を覚えている。
ラルフ自身にも、大切なときを奪われたという思いがある。
――そうだ、あのときベンノは鍵をかけてひとりにしてくれたのに、彼女は現れた――
五歳のラルフにとって、文乃は『ひでんか』で、優しいお姉さんで、恩人だった。
彼女のおかげで、人生が変わっていたことに気づいたのは大人になってからであったが。
ラルフの母フリーデリケ・ヴィルヘルミーネは、クヴァンツ侯爵家に嫁いで程なく男児を授かり、その翌年にも続けて次男を産んだ。
フリーデリケは最も重要な仕事を成し遂げ、侯爵家は早々に跡継ぎの心配がなくなった。
三度目の懐妊がわかったときに、夫妻が女児を望んだことは自然な流れであった。
そして、ラルフが生まれた。顔立ちの整った可愛らしい赤子であったことで、フリーデリケは「女の子だったら」と思ってしまった。
そして、ことあるごとに悪意なく「女の子だったら」と口にするフリーデリケを、周囲は呆れつつも仕方のないことだと容認していた。
だが、文乃だけは猛然と怒りをあらわにした。
「貴女がそうやって『女の子だったら』って言い続けているから、ラルフは理不尽なことを言われていると、気づいてさえいないのよ! 三人目の自分も男だったから、母さまがそう言うのは仕方ないって思っているのよ? こんな小さな子が! ラルフはなにも悪くないのに!」
ラルフは自分が理不尽なことを言われているとは、思ってもいなかった。聡明であったことが災いして、母の感情を理解していたのである。
文乃は怒っていいのだと教えてくれ、ラルフの代わりに母に怒ってくれた。幼いラルフ自身が、気づいていなかった哀しみに寄り添ってくれた。
ラルフは気がついたときには泣いていた。母も泣きながら抱きしめてくれた。
それ以来、フリーデリケは二度と「女の子だったら」と口にすることはなかった。
フリーデリケはきちんと、ラルフへの愛情を持っていた。ただ、貴族に生まれ、身についてしまった無邪気な傲慢さが、無意識に表れていたのであった。
幸い、根が素直であるフリーデリケは自らを省みることができた。
文乃のおかげでラルフはゆがむことなく、穏やかな親子関係を築けたと思っている。ひとつボタンを掛け違えていたら、家族の中での居場所を見失っていたかもしれない。
そして、侯爵家でもっとも大きな器をもつラルフがはぐれてしまったなら、厄介な問題が生じたことだろう。
五歳のラルフは「ラルフが大好きよ」と母に言われただけで、充分満足であった。文乃の怒りが、母の愛情を正してくれたこともわかっていた。
だから、「赤ちゃんのお兄さんになってくれる?」と、文乃に言われたときには、喜んでうなずいた。
「男の子だったら、一緒に剣を習うんだ。女の子だったら、騎士になって僕が守ってあげるよ」
文乃が消えた後、ラルフはクラウスを訪ねる両親に無理矢理ついて行った。母には待っていなさいと言われたが、頑として聞き入れなかった。文乃がいなくなったことを信じたくなかった。
邸を訪れたラルフは、しんと静まり返った空気に怖気づいた。いつも暖かい雰囲気に包まれていた場所がまるで違う、冬のせいだけではない寒々しい空間に変わっていた。
いつも笑顔で「いらっしゃい」と迎えてくれる『ひでんか』はいなかった。両親がクラウスと話す間、相手をしてくれたハンスもアルマも目を腫らしていた。
その全てを認めたくなかったから、ラルフは邸の外へと飛び出した。ベンノが追ってきたアルマをなだめて、ラルフを温室に入れてくれた。
そこでひとり泣いていたときに、彼女は現れたのだ。
「大丈夫よ、文乃も赤ちゃんも元気でいるわ」
銀灰色のフードからのぞく青緑の瞳は、吸い込まれそうに美しかった。
「……どうしてわかるの?」
「扉を超えたことは確認したわ。あちらに行けば少なくとも今は安全よ」
「いつか赤ちゃんに会える?」
「まだわからないわ。もし会えたら貴方にとって、大切な人になるわね。……ひとつだけ教えてあげる。生まれるのは女の子よ」
「なら僕は騎士になるんだ」
それからラルフは泣かなくなった。
「……ラルフ?」
美晴の声に、思い出から引き剥がされる。
「すまない、魔女に会ったときのことを思い出していた。陛下や叔父上からうかがっていた様子とは、全く違っていたから」
「私も別人かと思ったわ。なんだか昔から知っている懐かしい人のように感じたの」
「なにを話した?」
それでも不安気なラルフは、美晴を問い詰めるようにきく。
「母がこちらに残っていたら、命はなかったと。私が無事に生まれることも難しい、日本に帰ることだけが確実にふたりとも助かる道だったと。だから帰る方法を教えたと言ってたわ。……帰るしかなかったのよ」
ラルフは美晴の言葉にうなずく。クラウスが抱く恨みは消えることはないだろう。
「叔父上は納得されなかったのだろう」
「魔女さんもそう言っていたわ。もしかしたら、母はなにも話さないまま、帰ったのかもしれない」
ラルフが苦しそうな表情になる。もし、そうであればクラウスのこれまでの頑なな態度も腑に落ちる。クラウス自身の苦悩はどれほどのものであったのか、ラルフも苦しい思いに駆られる。
「彼女は『唯一の未来しか見えないときにはなにもしない、見えたことが全てそのまま起こるわけではない、というときに知らせることもある』と言っていたわ。お父様へお詫びの気持ちもあると。ただ、『私の好みに繋ぎ直しに来た』とも言ったのよね」
美晴とラルフの眉間に同じように皺が刻まれる。あの魔女が、一筋縄ではいかない存在であるということは、ふたりとも理解している。
「それはまた、叔父上が激怒しそうなことを」
美晴自身はあの魔女に含むところはない。彼女が言った通り、魔女も唯人であると思えたからだ。
多くのことを知っている魔女も、全てを思い通りにできるわけではないのだ。
だが、クラウスにとって忌避すべき相手であることは変わらない。
「会ったことは無駄にはならない、と言っていたけど、それがどういうことかは教えてくれなかったわ。でも、お父様に話しなさいということなのでしょうね」
美晴の口からため息がこぼれ落ちる。クラウスに会えるのはいつになるのだろう、と顔に書いてある。それに気づいたラルフは、少しだけ眉を下げた。
「とりあえず朝食にしようか、アルマに怒られる前に。後で明日の相談もしよう。手紙を書くのだろう?」
ラルフの気遣いに美晴は顔を上げて微笑んだ。