40.魔女の来訪
部屋に戻った美晴は、手紙を書くための道具があるかデスクを確認しようとした。引き出しに手をかけたとき、扉のほうから声がした。
「美晴ね」
部屋の扉も窓も閉まっている、開いた音はしなかった。別邸を囲む壁には防御の結界が張られている、とラルフが言っていた。
エマはお茶の用意のために厨房へ行っているから、この部屋には自分しかいないはずである。
美晴はそれらのことが頭にありながらも、「美晴」と正しい発音を耳にしたことで、驚くほど冷静になった。そして、声の主が誰であるのかも予想できた。
「魔女さんですか?」
美晴が顔を上げると、まるで扉から入ってきたかのように、若い女性が立っていた。
銀灰色の長いローブを着たその人は、フードを外しながら、にっこりと笑った。
長い黒髪に青緑色の瞳、色白の肌に小さめの唇が艶めかしい美女である。美晴よりは少し歳上に見える。
「私のことを知っているのね、うれしいわ」
「お婆さんだと聞いていました」
魔女は美しい眉をほんの少しだけゆがめ、ため息混じりに言った。
「アルトゥール王はともかく、先代の国王は小娘の言うことは聞かない人だったから。魔女らしくして行ったのよ。でも、この姿も仮初よ」
「そうなんですね」
不思議と嫌悪感はなく、美晴は昔から知っているような懐かしさすら覚えた。
「私に会いに来てくださったのですか?」
「そう、クラウス王子があんなにも頑なになってしまったのは、私のせいでもあるから。そのお詫びに知りたいことを、少しくらいは教えてあげようかしらと思って」
「母のことでしょうか」
「それが知りたいことかしら?」
美晴の知りたいことを教えてくれる。それは美晴が決めていいということらしい。未来の予言でも、お願いすれば教えてくれるのだろうか。
だが今、最も知りたいことはそれではない。
「母のところにいらしたときに、なにを話したのか教えてくれますか?」
魔女は美しい笑みを浮かべてうなずいた。美晴が知りたいことも、知っていたのだろう。
「あのとき文乃には、未来の道筋をみっつ教えたの。ひとつは日本に帰って貴女を産む。ここに残る場合にはふたつ。貴女は生まれるけど文乃は死ぬ、もしくはふたりとも命を落とす。ただし、日本に帰らないと決めたなら、ふたりとも命を落とす可能性のほうが高くなる」
美晴の眉間に深い皺が寄る。それは選択の余地のない話ではないか。美晴の感情を正しく認識して、魔女は続けた。
「勘違いしないでほしいのだけれど、私にどうにかできることではなかったのよ。そのときに、見えた未来を教えただけ。むしろ『帰る』という選択肢を増やして、帰り方を教えてあげたのよ」
魔女には未来が見えただけ、それを変える力は彼女にもない。それは美晴にも理解できる、でも……。
「クラウス王子は、その辺りをわかってくれないのよね、昔から。泉の蓋が破れたときには、なにもする気がないのなら黙っていろって、怒鳴られたわ。でも知っているかどうかで、未来は確かに変わるのよ」
美晴はうなずいたが、クラウスの気持ちもわからなくはない。知ったことでより悩むのなら、知らないほうがよかったと思うかもしれない。
しかし、魔女の言うように知っているかどうかで選択は変わる、いや、むしろひとつに絞られるのだ。美晴が精霊石をみつけたときのように。
―― ふたりとも命を落とす可能性のほうが高くなる――
「アンティリアに残るなら、どちらにせよ母は死ぬ、ということだったのですか?」
「そう、それは避けられない未来だったわ。少なくとも、私が文乃と話した時点ではね。クラウス王子は私を嫌っているから、文乃が話しても納得したかどうかはわからないけれど」
魔女は美しい笑みを崩さない。未来を知らせたことは気まぐれに過ぎず、文乃の選択は彼女にとっては、どうでもよいことだったのかもしれない。
「文乃はその場で言ったわ。『なら、帰るしかないじゃない!』って」
「そうでしょうね」
子どもの命が助かる選択があったなら、アンティリアに残っただろう。しかし、子どもの命が危ぶまれる道と確実に助かる道なら、文乃は迷うことなく「帰る」ほうを選ぶ。
「それもわかっていて、話したのでしょう?」
わかってはいても、恨みがましい気持ちを魔女にぶつけずにはいられなかった。八つ当たりであることは承知の上だ。
魔女は面白そうにからからと笑った。
「そういうところは、クラウス王子にもよく似ているわね。でも可愛気がある分、美晴のほうが好ましいわ。王子はなんとかしてみせろって言うのだもの。魔女も唯人のひとりでしかないというのに」
美貌の魔女はその声も美しく響く。鈴を転がすようなとはこのことね、と美晴余計なことを考えた。
そして、もうひとつ気になっていたことをきいてみる。
「母が帰るとき、お腹にいた私の魔力だけで帰ったというのは本当でしょうか?」
「そうよ、文乃の身体と、美晴の魔力。ぎりぎりのところだったわね。あれ以上貴女が育ったらクラウス王子が四六時中一緒にいないと、もたなかったでしょうね。そして、日本へ帰るための魔力はあのときの量が最低限必要だった」
だから、文乃はアルトゥールに「足りないかもしれない」と言ったのだ。確実に帰るために。
魔女の笑みは仮面のように崩れない。美晴は緊張を解くことができない。
「今の美晴の器は、あのときよりもずっと大きいわ。こちらへ来るときに、あちらにあった精霊石の力をすべて取り込んでも、まだ余裕があったでしょうね」
「え? お父様の精霊石だけでも、かなりの量があったのでは?」
「胎児の器と今の貴女とでは比べ物にならないわ。そうね、あのときも今回も使った力は同じくらい。日本で貴女の手元にあったすべての精霊石の魔力の、半分くらいといったところかしら」
美晴の顔が強張り、魔女をにらみつける。
「なら、母が生きているうちに……!」
「ふたりともは無理よ」
魔女は美晴の言葉をさえぎって、はっきり言い切った。
「文乃にも言ったわ。何らかの方法で魔力を得られても、子どもの能力が、ふたりで渡れるようになるのは十八の歳、そのときに文乃も戻れるかはわからない。日本のことを私が知ることもできない」
「なら、私が来るときの予言は貴女ではなかったのですか?」
美晴がアンティリアへ来る前に、「異界の扉が開く」と予言を告げた魔女がいたはずだ。
「それも私よ。美晴の器が動いたことがわかったから、教えてあげたわ。扉を開けようとする意思を感じたのよ。扉はこちらとあちら、どちらでもあり、どちらでもない。迎えがないと、美晴が要らぬ苦労をすることになるでしょう?」
美晴の意思が扉に干渉して、魔女の知るところとなったということらしい。
「私は唯一の未来しか見えないときには、なにもしないわ。だって意味がないでしょう? 変えられないのだもの。見えたことがすべてそのまま起こるわけではない、というときに知らせることもあるってだけよ。それでも、かかわり過ぎだってほかの魔女には言われるわ」
「ほかの魔女さんは、人とはかかわらないのですか?」
「見える魔女ばかりではないのよ。私は見えたことが、つながらないのは嫌なの。先につながって、続いていかないとつまらないでしょう?」
つながるもの、それは文乃や美晴の命のことなのか。それともアンティリア王国の未来のことなのか。
この魔女には「変わり者」という言葉には収まりきらない怪しさがある。だが、それも含めて、なにかを超越した存在なのかもしれない。
計り知れない、それをきいても教えてはくれないだろう。美晴は小さくうなずいて別のことを口にする。
「私に会いに来てくださったことで、なにかがつながるのですか?」
「あら! 賢いのね。そこに気づいてくれるとは思わなかったわ」
魔女は驚いたようすで、両手をあわせたが、それが本心からのものかどうか、知る術はない。
「変えられないときには、なにもしないのでしょう? なら、なにかが変えられる、ということですよね」
ふふふ、と魔女は人間味のある笑みを浮かべる。それまでの仮面のような笑顔とは違う、含みのある表情に、ああ確かに唯人なのだと、美晴は思った。
「今日来たのは、クラウス王子へのお詫びのつもり。文乃の未来は変えられなかったけど、美晴にはまだこれから選ぶ道がいくつもあるのよ。それを私の好みにつなぎ直しに来たの」
お詫びと言いながらも「私の好み」が優先される。それでも、美晴は怒る気にはならなかった。今回に限っては、彼女の好みは美晴にとっても好ましいものだろう、と思えたから。
「上手くつながるでしょうか?」
「そうね、私と話したことは無駄にはならないわ。それでいいはずよ。どちらにしろ、美晴はあの子と一緒にいればこれからも大丈夫でしょう?」
魔女は含みのある笑みのまま、美晴を見つめる。
「あの子……?」
「文乃が帰った後、ずっと泣いていたわ。ようすを見に行ったら、あの子は私に言ったのよ。『いつか赤ちゃんに会える?』って。クラウス王子が文乃の心配で頭がいっぱいだった頃にね。それはある意味当然のことだから仕方ないわ。だからこの二十年、純粋に美晴を一番心配していたのはあの子よ」
「魔女さんはどうこたえたのですか?」
「『まだわからないわ』って言ったわ。でも、『もし会えたら貴方にとって大切な人になるわ』とも言ったのよ。あの子、覚えているかしらね、ふふふ」
すうっと北風が入り込んできたように、美晴の心が冷たくなる。
「……それは見えたことですか?」
鼓動がうるさく美晴の心を叩き、頭の中に響く。
「ほらほら、勘違いしないの。私が決めたことではないのよ。美晴とあの子がこれから決めることが見えたのよ」
魔女は小さな口の端を上げる。白い肌に浮かぶ真っ赤な唇が艶めかしい。
「まだ五分かしら。でも、素直になったほうがはやく安心できるわよ。あの子は口は素直に動かないけれど、行動は間違わないわ。美晴はもともと素直な子でしょう。でもあの子に対してはそうできないことが多い、なぜだかはわかっているはずね?」
「……はい」
いい子ね、という魔女の言葉は美晴の心に柔らかく染み込む。
「ちょっとお節介が過ぎたわね、最後にひとつ。クラウス王子にも、素直な気持ちで話せばいいのよ。大事なことはここへ来る前に、教わってきたはずよ」
じゃあね、と言うと美晴がこたえる前に魔女の姿は消えた。青緑の煙が立ち上り徐々に白くなる、それも消え失せると部屋は元通りの静寂の中に美晴ひとりとなった。
魔女にお礼を言いそびれた、と思ったがすぐに、彼女はそんなことは望んでいないだろう、と気づいた。すべて真実を教えてくれたとも、思えない。
部屋にはまだ、魔女の青緑の美しい魔力の残滓がある。部屋の灯に照らされて煌めきながら、少しずつ消えていく。
美晴はそれが完全になくなるまで、じっと見つめていた。




