4.鍵つきの日記帳
由香里の誕生日、昼近くに起き出した美晴は花島家でブランチを食べた。
文乃が生きていた頃から休日にはよくあることだったが、今日は平日なので健彦は普段通りに出勤し、食卓では女三人がパンケーキを囲んでいる。
「んー、ふわふわパンケーキにメープルシロップの幸せ」
「美晴ちゃん結構飲んでたのに、けろっとしてるわね、頼もしいわ。由香里はパパに似たのねー」
二枚目に手を出す美晴とは対象的に、由香里のパンケーキは手つかずのまま。途中までは調子よく過ごしていた由香里は、突然眠ってしまうと、ついさっきまでまったく起きなかったのだ。
「これが二日酔い……」
「私の娘としては情けないわね、ほら野菜ジュースくらい飲みなさい」
由香里は野菜ジュースがなみなみと注がれたコップを受け取ったが、口をつけただけで渋い顔になった。
美晴は由香里の顔を、笑いながら眺めていたが、見慣れた光景から急速に現実味が薄れて、自分が自分を演じているような感覚にとまどっていた。
今までと同じではいられないことは、すでに決まっているのかもしれない。それは動き出しているのに、どうにか抗おうと、今までの自分でいようとあがいている。なにかの鍵はもう開いてしまったのかもしれない。
美晴の意図しないところで、勝手に未来、意思さえも動かされているのかもしれないと思うと、恐怖を感じる。でも、どれだけ恐ろしくても、文乃の日記を読まなければならない。
「ごちそうさま、美味しかった! じゃあふたりとも、よろしくお願いします」
花島家からなだらかな坂道を上って、美晴のマンションへ向かう。
「そういえば美晴のマンションって中古で買ったの? まあまあ築年数経ってるよね」
「ずっと住んでるから考えたことなかったな、冴子さん知ってる?」
坂道の途中に小さな公園がある。由香里と美晴がよく遊んだ頃と遊具は変わってしまったけれど、植栽はそのままである。葉が生い茂る桜の下で咲く躑躅を眺めながら、冴子がこたえた。
「文乃先生が、実はものすごくいいお家のお嬢様だったことは知ってるでしょ。詳しいことは知らないけど、家出して絶縁されて妊娠して、って困ってたときに助けてくれた人の持ち物だったみたいよ」
「ああ、そうだ『神野さん』だ」
冴子がうなずいて、続ける。
「文乃先生のお祖父様か、ひいお祖父様だったか、のお姉さんとかで、やっぱりご実家と縁を切ってて唯一頼れる人だったって。その人と養子縁組して神野文乃になってから、美晴ちゃんが生まれたってこと」
「うん、それは知ってる。でも私が生まれる直前に亡くなったんだよね。その人がマンションを遺してくれたってことか、あらためてありがとうございますだね。ちゃんとお墓参りに行かなきゃ」
「じゃあ、美晴も本当はすごいお嬢様ってこと?」
由香里は興味津々に聞いてくるが、美晴は苦笑する。
「いやいや、だって、絶縁されてから生まれてるんだし。もしお母さんがお嬢様のままだったら、そもそも私は生まれてないよ。でもあんなお家のお嬢様だったなんて、いまだに信じられないけど」
「そんなにすごい名家なの?」
冴子も由香里と同じ表情になったとき、ちょうどマンションのエントランスに着いた。
「あれ、冴子さんも知らなかった? まあ、私もお母さんの死亡届出すときまで知らなかったんだけど」
「私が知り合ったときには、もう神野さんになってたからね。ここに住んでたから、産院が一緒になったわけだし」
「そっかー、あえて言わないか。絶縁されてるんだもんね。……九条家だよ、九条グループの。今の社長がお母さんのお兄さんらしいよ。会長がお祖父さん。私が血縁者だって言ったら詐欺になるから、ここだけの話にしてね」
国内有数の企業グループの創業家が出てくるとは思わなかったのだろう、冴子も由香里も言葉がない。そっくりな顔が同じ表情で驚く様子に、美晴は思わず吹き出した。
「冷蔵庫にアイスティー入ってるから、出して飲んでて」
玄関を開けて、お泊り荷物を片づけながら由香里を使う。由香里にとっても、勝手知ったる他人の家だ。
ダイニングテーブルには三人分のアイスティーと、美晴のお気に入りのチョコレートが出してあった。
「あ、まだ開けてないやつなのに、もう!」
「一緒に食べるために買ったんでしょ?」
由香里は悪びれもせず、チョコレートに手を出した。
「で、美晴ちゃん?」
冴子は保護者としての役割と好奇心、葛藤しながらも好奇心のほうが抑えきれないようだ。
「はい、冴子さん。こちらですよー」
美晴はチョコレートの隣に日記帳を置く。
真っ黒な表紙に銀色の箔押しで「Diary」、そして昨日の鍵と同じ色の金具で閉じられている。金具の中央に小さな鍵穴がある。
「ほんとに普通の日記帳だね。なんか中学生とかが使ってそう、鍵つきってあたりも」
由香里の言う通り、見た目は立派だが、ちょっと背伸びしたい中学生が部屋に隠していそうな日記帳だ。昨日の鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。
「では、開けます!」
美晴が鍵をまわすと、ガキンッと大きな音がした。
予想外の音に三人が顔を見合わせる。由香里が思わず大きな声を出す。
「えっ! 壊れた?」
「いや、大丈夫だと思うけど、そんな頑丈そうな鍵でもないよね。こんな大きな音する? なんだろう、びっくりした。……あれ? これって」
美晴が表紙をめくろうとすると、日記帳は真ん中から大きく開いた。左右がそれぞれくり抜かれて箱になっている。
左側にはすりガラスの香水瓶のような容器と、紺色のベロアのアクセサリーケース。右側には封筒が何通か入っている。
「日記じゃない……」
思わず、冴子の本音がこぼれた。
美晴は冴子のつぶやきに少しだけ頬をゆるめて、右の箱から封筒を取り出した。