38.精霊石と魔法
文乃のお気に入りだったという、パンケーキとフルーツの朝食は、文句なく美味しかった。
パンケーキはアンティリア王国にも存在するらしい。もちろん花島家の家庭的なものとは違い、分厚い生地に、たっぷりのクリームと蜂蜜がかかっていた。
食後にラルフに連れられて、大公邸の裏手にある、広い庭園へ向かった。
庭園の奥には硝子張りの温室がある。庭師が開けてくれた扉の中には、原色の鮮やかな花々が所狭しと並んでいる。
「こんなところがあるのね。南国の花?」
日本で見たことのある花もあれば、まったく知らないものもある。
それらがアンティリア特有の花なのか、単に美晴が知らないだけなのかはわからない。
「この邸はもともと王家のものだからね。一通り以上のものがあるよ。ここの花もなかなか貴重なものが多いらしい」
植物にはあまり興味がないようすのラルフも、周囲の花々を見やる。
入口から、ゆるやかに曲線を描く通路を進む。その先には、煉瓦を積んだ円形の花壇の中央に、大きなテーブルセットが置かれていた。
温室全体には大きめな樹木が多いが、この一角だけは、常に花の彩りを楽しめるように管理されている。
「さっき鍵を開けてくれた庭師のベンノは、この植物を研究するのが生きがいだと言って、ずっとここに仕えている」
長い白髪に眼鏡をかけたベンノは、庭師よりも学者という風貌であったが、本人もそのつもりでいるのかもしれない。
美晴を見て笑みを浮かべたベンノは、文乃がいた頃からこの邸に仕える古株のひとりである。
美晴が椅子にかけると、エマがお茶の用意をする。少し濃いめの紅茶に、チョコレート。なにも言わなくてもエマは、好みのお茶を淹れてくれるようになった。
美晴の向かいに座ったラルフは、さて、と指をパチンと鳴らす。青みの強い紫の光が、指先からふわりと広がって消える。もはや見慣れた、なにかしらの結界である。
「これは防諜、というよりは遮音かな。こちらの音は漏れないが、外の音も聞こえなくなる」
ラルフは今度は右の掌を上に向けると、視線を集中して魔力を集める。美しい紫の光が小さな球になって輝く。
光の球が両手に包まれる。ラルフはそのまま掌を叩き合わせて、ぱんっと乾いた音を立てた。
魔力の球は弾けて、光はテーブルの周りを囲んで消えたように見えた。しかし、よく見るとテーブルを中心に、淡い紫色の磨りガラスのような半球ができている。
「視界の遮断と、物理的に空間を遮蔽する結界をさらに重ねた。これで、昨夜ローザリンデが張った結界と近い状態になっている。私が魔力量を気にせずにできるのは、これが限界かな。これ以上の魔力を使うと回復に時間がかかる」
美晴は美しいドームに見惚れている。外からの光は薄っすらと紫になり、木々の影は少し濃い色で揺れている。
ラルフはあえて結界の内側からも、外が見えにくい状態を作りだしたが、通常、視界遮断の結界は、外からの視線をさえぎるだけのものだ。
美晴が昨夜無意識に張った結界は無色で、漏れでていた霧は、美晴の魔力そのものであった。
「綺麗……」
閉じ込められているはずなのに、その空間は不思議と落ち着く。見慣れた紫色に、安心するのかもしれない。
ラルフは、美晴が瞬きを繰り返し、少し口を開けていることに気づいて、目を細めた。
「このように普通は自分の意思で魔力を使って、魔法をかけるが、ローザリンデは無意識に使ってしまう。しかも、昨夜の結界は内側からも出られないように条件づけがされていた。君がそれに気づきさえすれば、簡単に解けたはずだが」
それはなかなか危険な状態だから、練習をしてほしい、とラルフは苦笑して手を広げた。
「ああ、そういうことね。わかりました」
美晴はここへ連れてこられた理由を理解した。ラルフは邸の中よりも、なにかあったときに影響が少ないこの場所を選んだのだろう。なにか起きてしまったら、ベンノはおおいに嘆くだろうが。
「通信石を思い出してくれてよかった。あの結界を私が外から解くことはできなかったから」
「でも、ラルフの魔力が見えたから解けたのでしょう?」
「いや、その前に君が通信石を使ったから、結界に魔力の通り道ができた。そこから私の魔力で働きかけることができた、という順だね」
美晴が無意識に張ってしまった結界は、ラルフに言わせれば「完璧」であった。
貴族の中でも大きな器をもつラルフはもちろん、高位の精霊術士であっても解くことはできないという。美晴はそれほどの魔法を、無意識に発動できてしまう。
本来なら、同等の魔力をもつクラウスが導くべきであるが、今はそれを期待できない。精霊術士に依頼するにしても、口の固い適任者をすぐに呼び寄せることは難しい。
結局、ラルフができる限りのことを教えるように、とこれも国王命令となった。
正直なところラルフには荷が重い。しかし、魔法を制御できるようにならなければ危険だ、という国王の言葉には反論できなかった。反論すれば、王宮に連れて来い、となってしまう。
「私の結界は君が解こうとすれば、簡単に消えるだろうが、それは最後にしてもらおうか。とりあえず、これをひとつもって」
テーブルに空の石を五つ並べる。艶のない真っ黒な小石は、道端に転がっていたら、単なる砂利に見えるだろう。
美晴は指先でひとつ摘むと、左の掌に乗せた。そのまま見つめていると、ふわふわとした綿飴の糸のようなものが、石にまとわりつく。
糸は虹色に輝き、ゆっくり石に吸い込まれて消えていく。
糸をすべて飲み込んだ石は一瞬、強い光を放つと精霊石となった。最上級の蛋白石のような、美しい遊色が石の中で渦を巻いている。
「凄まじいな」
魔力の動きを追っていたラルフは、詰めた息を吐き出した。美晴から、虹色の精霊石を受け取ってながめる。
「美しいな……。今はただもっていただけで、なにも意識していないね?」
美晴は困り顔でうなずく。事実、なにもしていないのだ。
ラルフは腕組みをしながら少し考え込んでいたが、ふとなにか思いつくと、空の石をひとつ手に取った。
「昨日、魔力が呼吸に合わせて動いている感覚があっただろう。それを覚えているか?」
「体の周りに流れた霧が動いていたのは、見えたけど」
「そのあと、目を閉じて体の中から魔力が流れていく感覚。……そうだな、視覚の影響は大きいから目を閉じて、掌を両方上に向けて置いて」
美晴が言われた通りにすると、掌に冷たいなにかが触れ、ラルフの言葉が続く。
「これが、私の魔力。昨日は結界の中からこの流れを引き寄せただろう? ゆっくり、焦らなくていいからこれに自分の魔力を乗せていく」
閉じた視界に、青い光が線となって浮かび上がる。
その流れに、身の内に感じるなにかを添わせるイメージを描く。
斜面を流れ落ちる水の流れに、別の場所からもう一筋流した水が合流していくように。
背後で、エマがほうっと感嘆の息を吐いた。
「そう、それでいい。目を開けていいよ」
美晴の掌の上で青い魔力の緒に、より細い虹色の糸が織り込まれていく。青を基調とした虹色の美しい組紐が、ラルフの手にある空の石に吸い込まれていく。
「流れを止めてみて」
美晴が糸が切れるようすを思い描くと、虹色の糸は解れるように柔らかく途切れた。ラルフも息を吐いてうなずく。
「自分で魔力を意識して流した感覚は、わかったかな?」
美晴は青みの強い虹色の精霊石を見て、感嘆の声を上げる。
「……わかった。すごい、こんなこともできるのね」
まるで他人事のように言う。ラルフは呆れて、喉の奥で苦笑を噛み殺している。
「はじめて見たよ。複数の人間の魔力を含んだ精霊石なんて聞いたこともない。それに……」
ラルフが手にもっていた精霊石をテーブルの上に置く。五つあった空の石は、最初のひとつは七色を包んだ蛋白石のように、ほかの四つは青みの強い虹色の精霊石となっていた。
「手に触れもしないで、精霊石ができるのもはじめて見た。これは外に出せないな。今この色の瞳をもっている王族はいない。『火』のほうを使えばよかったな。王太子殿下の精霊石だと誤魔化せたかもしれない」
「私は精霊石をつくろうとは、思っていなかったけど」
ラルフは明朗な笑みでうなずく。
「そうだろうね。ただ、魔力の流れる感覚をつかんで、それを止めることはできた。もし、また魔力が流れだすようなことがあれば、『止められる』と覚えておいてほしい」
美晴は居心地の悪さをおぼえた。ラルフに笑われたからではない。体の内に流れる魔力の存在を、確かに感じたからだ。
美晴は「止められる」という言葉を繰り返しつぶやく。
「落ち着いて対処すれば、止められる。今できたようにね。しかし、魔力が減ったようすはないな。疲れた?」
「全然疲れてないわ、昨日もだけどちょっと心配しすぎよ」
美晴の言葉に今度はエマが苦笑して、口を挟んだ。
「ラルフ様のご心配は当然のことですよ、お嬢様。普通は貴族の方でも、精霊石をつくるとかなりぐったりされますよ」
「昨日の今日で、ローザリンデが平然としていることが信じられなくてね。私の器は大きいほうだけれど、それでも少しは疲れている。魔力も普段より少なくなっている」
ラルフは、私の分は返してもらおうか、というと、魔力の混ざった精霊石に手をかざして青い光を引きだした。
ラルフの手に『氷』の魔力が戻っていくと、精霊石はすべて同じ色になった。
「精霊石としての性質は、ほかのものと同じようだね。精霊術士にみてもらわないと正確なことはわからないが。まあ、この状態ならエマがもっていても構わないだろう。『お嬢様からいただいた』ということにして、使ってくれ」
「これ、お嬢様の『氷』はそのまま残っていますよね? ラルフ様のお力も私には信じられませんよ」
「はじめてやってみたんだけどね、自分の魔力を抜き取っただけだよ」
複数の人の魔力を含む精霊石など、今まで手にすることはなかったから、それがすごいことなのかラルフにもわからない。
石に含まれていたラルフの『氷』はなくなったが、虹色の輝きは美晴の瞳の色と同じ。すべての精霊の加護がそろっている。
「今日はこんなところかな。エマ、邸にある空の石を、ローザリンデの練習用に渡しておいてくれるかな。落ち着いていれば、邸の中でも問題ないと思う。心配ならつき添うから声をかけてくれ。そろそろ結界を解かないと、ベンノがやきもきしているだろう」
ラルフは立ち上がると美晴に、外に出たいと意識して結界に触れるように、とうながした。
美晴も立って結界の壁に近づくと、扉を開けるようなイメージで紫の壁を手で軽く押した。
美しい磨りガラスのような壁が、砂糖細工に水をかけたようにほろほろと崩れていく。結界の残滓は花壇の煉瓦の縁できらきらと光って消えていった。
「結界の解き方はそれでいい。自分で張った結界も同じようにすれば解けるはずだ。魔力の流れを操るのはとても上手だよ。まあ、必要のない結界を張ってしまわないように気をつけてくれ」
肩をすくめるラルフに、美晴は神妙にうなずいた。




