33.『チエネツ』
美晴はかつて王宮で文乃が使っていた、という部屋に案内された。王族の住まう、特に厳重に警備されている一角である。
大公邸よりも広く、より寂しい部屋で、ひとり思いを巡らせる。
クラウスと話せないまま王宮に連れてこられたが、国王夫妻と話したことで、父と話したいという気持ちはより強くなった。
そう、決意をあらたにしたのに。
翌日からも、美晴は忙しかった。
文乃は美晴の予想以上に、この国に根を下ろしていたらしい。
国王の母である王太后をはじめ、会わなければならない人との面会が続き、美晴は一日中笑顔を貼りつけたまま過ごすことになった。
その合間には、王妃が侍女をぞろぞろと連れてきて、美晴の身体を隅々まで採寸していった。
来客の波がいち段落する頃には、もう半月ほどが過ぎ去っていた。そして最後に、社交シーズンの終わりとなる、王家の夜会へ出席するように、と国王に求められたのである。
本来なら、父親であるリューレ大公が美晴をエスコートするべきであったが、所用により欠席となったため、客人の扱いで国王夫妻の隣に席が設けられた。
ラルフは当然、護衛として背後に張りついている。ここでも、多くの人の挨拶を受けたが、こちらから挨拶をして回らなくてよいだけましだ。
くすんだ銀髪に金色の瞳の煌びやかな美女と、艶のある茶色の髪に青い瞳が美しい壮年の男性が、美晴の席へ近づいてくる。
――美男美女! あれ、でも――
「ローザリンデ殿下、はじめまして。カール・バルタザール・クヴァンツと申します」
「妻のフリーデリケ・ヴィルヘルミーネです。お会いできて嬉しいですわ」
ラルフの両親、クヴァンツ侯爵夫妻である。フリーデリケは王妃カタリーナの妹でもある。
「もう! お姉様とラルフはローザリンデ様とお話できるのに、わたくしはずっとお目にかかれないのですもの。今日をとても楽しみにしておりました。……お母様とは、仲良くさせていただきましたのよ」
「はじめて、ローザリンデ・美晴です。ありがとうございます。あの、私もお会いできて嬉しいです」
ふたりは穏やかに、親しげな笑みを美晴に向ける。ラルフは周囲に注意を払いつつ言った。
「殿下ご自身が承知されないところで、予定が次々に決まっていたのですから、仕方ないでしょう。大公殿下とも、まだほとんどお話する間もなく、王宮へいらしたのですよ」
母上のわがままは通りませんよ、とラルフは冷たく言い放つ。
「まあ、かわいくない。ローザリンデ様、ラルフはご迷惑ではありませんか。いたらない子で、申し訳ございません」
騎士としてのラルフも実母を前に、普段の余裕を保つのは難しいらしい。母上、と困り顔で小さくため息を吐くラルフは、なんだか可愛らしい。
「よくしていただいてます。私はこちらのことをなにも知らないですから」
フリーデリケは輝く金の瞳を細めて微笑む。
「ふふ、姿もお人柄もお父様似でいらっしゃるわね。アヤノはどんなお母様でした?」
「母は……優しかったですけど、はっきりきっぱりした人でしたから、私がうじうじ悩んでいるとよく叱られました。『人生なにがあるかわからないんだから、自分で決められることは早く決めなさい!』って。今思えば自分の経験から言っていたのですね」
フリーデリケの目が少し潤むが、笑みは崩さない。
「目に浮かぶようですわ……。ローザリンデ様、落ち着かれましたら、ぜひ我が家にいらしてくださいませ」
「はい、ありがとうございます」
夫妻が去った後、美晴は後ろに立つラルフに声をかけた。
「お優しいお母様ね」
「母君と、親しくさせていただいていたようです」
「うん、よかった……」
会場に音楽が流れ、国王夫妻がダンスをはじめる。
美晴は座ったままでよいとのことで、完全に観客となっている。国王夫妻やほかの貴族たちのダンスは素晴らしかった。そこに加わって踊る技量はもちろん、度胸も持ち合わせていない。
「母君も苦手だったそうですよ」
ラルフは拳で口元を隠していたが、笑われていることはわかる。
「私は苦手なのではなくて、踊ったことがないのよ」
「練習なさるならお相手しますよ」
「しないといけないかしら?」
ラルフが拳を開いて顎に手をあてる。
「叔父上にならって引きこもるなら、必要ないかもしれませんね。この夜会で貴女は大公女として公式に認められましたから。今後のことは決まっていませんが、ご希望を仰って大丈夫ですよ。陛下はできる限り貴女の意向を尊重してくださるでしょう」
「私はお父様のところへ帰りたいです」
ラルフは眉を下げたが、それでも表情はおだやかだ。
「そうでしたね。それが最も重要なご希望ですね」
しかし、夜会が終わると、翌日から美晴は熱を出して寝込んでしまった。王宮の侍医の診断は「過労」であった。
「エマ、ごめんなさいね。休んでないでしょう?」
「私は王宮では臨時雇いのようなものですから、お邸よりも楽をさせていただいてますよ。王宮女官の皆さんは優秀な方ばかりで、勉強になりますし。私のことは大丈夫ですから、お気になさらないでください。お疲れになったんですよ。落ち着かないかもしれませんが、お体を休めてくださいませ」
「もう熱はないから大丈夫よ。ラルフは?」
熱を出してから二日ほど、ラルフは顔を見せていない。護衛とはいえ、未婚の令嬢の寝室へは入れない、というこの国の常識を美晴は知らない。
だが、エマは美晴が心細くなっているのだろうと思ったらしい。
「扉の外に控えておられると思いますよ。お呼びしましょうか?」
エマに呼ばれて入ってきたラルフは、枕元の椅子に座った。エマはふたりにお茶を淹れ、部屋の隅に控えている。
「もっと体調に気を配るべきだった。申し訳ない」
ラルフは整った顔をゆがめて謝るが、美晴は首を振る。
「大丈夫よ、ラルフのせいじゃないわ。疲れもあるけど、たぶん知恵熱みたいなものよ」
「『チエネツ』?」
ラルフもエマも、不思議そうな顔で美晴を見る。はじめて通じない言葉が現れた。アンティリアには「知恵熱」は存在しないらしい。
「子どもがはじめての場所や、玩具にはしゃぎすぎたり、興奮したりして、病気でもないのに熱を出すことがあるでしょう? そういった発熱のこと。色々なことが起こりすぎて、私の許容量を超えてしまったんだと思う」
ラルフもエマも、頬をゆるめて笑った。
「ありますね、そういうこと。なら、やっぱり横になってお休みになっててください」
「子どもはすぐにじっとできなくなるけどね」
美晴はむっとしながらも、ラルフの顔を見て安心していた。少し姿勢を正すと話を切り出した。
「そういえば、陛下に聞きそびれてしまったことがあるの」
「今は……」
「休めと言うのでしょう? もう本当に大丈夫よ。それに謁見の後で話せることがあれば、教えるって言ってたでしょう?」
美晴のまっすぐな瞳に、ラルフは仕方ないなと応じた。
「なにを聞きたいの?」
美晴はサイドテーブルに置いてあった『王家の精霊石』を手に取った。
「これのこと。ラルフは、あちらにあったときに、
空の石ではなかったことを気にしていたでしょう? 母は魔力が足りないかもしれない、と陛下にお願いしたのよね。でも陛下の魔力は使われていなかった。どういうことなのかと思って」
ラルフの眉根が寄って、間に深くしわが刻まれる。はあ、と長く息を吐き、じっと美晴を見つめる。
ラルフの予想外の反応に美晴は慌てた。
「えっと、聞いてはいけないことだったら、教えてくれなくても大丈夫よ?」
「……いや、ローザリンデは本当に鈍いのか鋭いのか、わからないね。うーん、あの場で陛下にきけば、説明してくださっただろうから、いいのだけどね。謁見のときの話も、この話も叔父上が話すべきだと私も思うけれど、まあ仕方ないか」
私の説明でいいのかな、とラルフが珍しく弱気になっている。美晴はうなずき、ラルフの言葉を待った。
「私は、母君が国に帰るとき、叔父上の精霊石をもち出したのではないか、と思っていたんだ。叔父上の力がないと扉は開かないからね」
クラウスの力とは、闇の魔力のことだ。ラルフは顔は動かさず視線だけで、エマのほうを見た。特に気にしてはいないことを確認して続ける。
「それと『王家の泉』の力を使ったのかなと思っていた。ただ、『王家の泉』の力は濃いが、器をもたない母君には使えなかったはずなんだ。だから、『魔力が足りないかも』と仰ったと聞いて納得したよ。まあ、陛下が精霊石を渡していたことは、君が来るまで、私も叔父上も知らなかったのだけれど」
「そうなの?」
ラルフは片方の眉を上げてうなずく。
「叔父上は怒っていたよ。そのつもりがなかったとしても、帰るための魔力を提供したわけだからね。私もそれを最初に見たときは、陛下が意図して母君をあちらへ帰したのかと思ったよ」
美晴はあらためて、ペンダントの精霊石を掌にのせて見つめる。水色の光を失っても、最高級の蛋白石の輝きはむしろ増している。
――だからあのときのお父様は、不愉快そうにしていたのね――
「でも陛下の魔力は使われていない……」
「ローザリンデがこちらへ来るとき、叔父上の精霊石と、陛下の精霊石の力を全て使い切ったのだろう? 母君が帰るときにも同じか、それ以上の力が必要だったはずだ」
ラルフの説明は丁寧だが、妙に歯切れが悪い。本当は言いたくないようだと美晴は気づいたが、引き下がるわけにはいかない。
「それなら、どうして陛下の精霊石はそのままだったの?」
「……おそらく、いや、確実に、だな。母君の胎内にいたローザリンデの魔力だけで、充分だったということだよ。叔父上の精霊石ももっていかなかったのだと思う。君の力なら同じことができるから」
――光はそれだけで在るわけではない。表裏一体の『闇』をあわせ持つ――
「だから、あちらで陛下の精霊石が魔力を失っていなかった、と聞いてとても驚いた。気にしていたのはそういうことだよ。陛下と叔父上にもお知らせしたけれど、おふたりともとても驚いておられたよ」




