3.文乃が残したもの
美晴がそれをみつけたのは、まったくの偶然だった。文乃の部屋は生前のままにしてあり、美晴は本やアクセサリーを探すときに入るだけで普段はほとんど使わない。
思い出をとっておきたいとか、母の空気を感じたいというわけではなく、単に部屋を片付ける必要がないからだ。2DKの間取りにはもともと美晴の部屋もあるので、差し当たり不便はない。
その日、美晴はレポートの資料になりそうな本を探して、文乃の本棚を眺めていた。一番上の段には同じ出版社の文庫本ばかりが並んでいたが、右端の五、六冊だけが少し手前にはみ出していた。美晴が手を伸ばしてはみ出した本を押すと、予想に反して抵抗があった。
それらの本を取り出してみると、奥から鍵つきの黒い日記帳が出てきたのである。
ワイングラスから一口、しっかりと飲み干してから美晴は話しはじめた。
「ちょっと前に書斎の本棚の奥から、日記帳が出てきたの。隠してあったのか、偶然後ろに倒れちゃったのか、わからないんだけど。ただ鍵つきで、その鍵は見あたらないんだよね」
冴子が息を呑んだことに、美晴も由香里も気がついた。
「壊せば開けられそうな鍵なんだけど、そこまですることもないかなって。とりあえずそのままにしてある。もし鍵がみつかったら、開けるけど。中身が本当に日記なら、冴子さんにも読んでもらおうと思ってるよ」
冴子はじっと美晴の目を見て、なにか考えているようだったが、少し待ってて、と言うと部屋を出ていった。
「やっぱり冴子さん、なにか心あたりがあるんだね」
「そうだね。でも鍵つきの日記帳って、なんかベタな感じだよね。文乃先生らしくないって気もするけど」
美晴は由香里の言葉にうなずいて、カナッペを手に取る。
「そうなのよ、鍵をかける意味もわからないよね? 私に読ませたくないなら、処分する時間はあったはずだし」
冴子は白い封筒を持って戻ってきた。表に書かれた『花島 冴子 様』とある字は、美晴の予想通り文乃のものだ。
冴子は封筒から手紙と、もう一回り小さい封筒を取り出して美晴に渡した。
「読んでいいの?」
冴子がうなずいたので、美晴は折りたたまれた便箋を広げた。
――――
冴子さんへ
あなたに会えたことで、人生の最期を穏やかに迎えられそうです。本当にありがとう。心残りは美晴のことだけです。どうか、これまで同様に美晴を見守ってください。よろしくお願いします。
お願いがあります。
同封したものは鍵です。もしも美晴が探していたら渡してください。ただし、美晴が自ら探していた場合にだけ、渡して欲しいのです。冴子さんからこの鍵の話はしないでください。この先、美晴がこの鍵を探すことなく、心を委ねられる人をみつけて、その人の子どもを産んだなら、そのときにはこの手紙と一緒に鍵も処分してください。
最期までお世話になりっぱなしでごめんなさい。でも、このようなお願いをできるあなたがいてくれて、本当によかった。健彦さん、由香里ちゃんとの幸せをいつまでも祈っています。
どうか美晴のことをよろしくお願いします。
文乃
――――
美晴の手元をのぞき込んでいた由香里が、小さい方の封筒を手に取って振った。カサカサとなにかが紙にこすれる音がする。
「小さい鍵だよね、美晴、開けていい?」
「うん、お願い」
由香里はハサミを持ってきて、封筒の端を切ると、中身を美晴の掌に落とした。くすんだ鈍色の金属でできた小さな鍵だ。玩具のような小さな鍵は、見た目よりは少し重たく感じた。
「亡くなるひと月くらい前に病院で預かったのよ。私が死んだら読んでって言われて。納骨が終わってから読んだんだけど……」
「意味がわからない。なんで、こんなにわけがわからないことばかりするかな、お母さんは!」
困惑して眉を下げる冴子と、本気で怒っている様子の美晴を見て、由香里は赤い顔で息を吐いた。
「で、この鍵はその日記帳のものであってるの?」
「たぶん、あってると思う。大きさもこれくらいだし、金具と同じような色だし。冴子さん、明日、じゃなくて今日はお休みだよね?」
買ってきたワインを全て開けるつもりで、有給休暇を取っていることは由香里から聞いている。
なんだか酔いは吹っ飛んじゃったけどね、と冴子がうなずいた。
「まったく酔ってないでしょ。じゃあ起きたら一緒にうちに来てくれる? 由香里も来るでしょ」
「ここまで聞いて一緒に行かないとかないから、気になるじゃん」
冴子があらたまった様子で、もう一度美晴を正面から見つめる。
「気づいてるでしょうけど、その日記帳に書いてあるのは、美晴ちゃんのお父さんのことだと思うわよ。私と由香里がいてもいいの? なにが書いてあるかは想像もつかないけど、一人で読んだほうがよくない?」
「冴子さんと由香里にはそばにいて欲しいの。内容によっては私、暴れるかもしれないから、そしたら止めて」
冗談めかしてこたえたけれど、美晴は一人で鍵を開けることが怖いのだ。それは冴子にもよくわかっている。
徹底して父親の存在を隠していた文乃が、なぜこのようなものを遺したのか。なぜ美晴に直接話すことをしなかったのか。冴子も、どうして、と思わずにいられない。
美晴はざわめく気持ちを抑えながらも考える。美晴が「結婚したら」ではなく「子どもを産んだら」、それは血の繋がった家族ができたらということだろうか。
どうして美晴の父親と一緒にいられなかったのか、文乃が自ら離れることを選んだのかどうかはわからない。
父親のことをなにも語らなかった代わりに、美晴は恨み言のようなことも一切聞いたことがない。今までなにひとつ手がかりのなかった父親のことが、やっとわかるのだろうか。美晴は慣れないアルコールにぼやけた頭で考えるが、結局は鍵を開けるしかない。
「あー、もう、今は飲む! 冴子さんのワイン、味見させて!」
「私もそっち飲んでみたい」
ふたりの娘の若者らしい言葉に苦笑しながら、冴子は新しいグラスを出して大人のワインを少しずつ注ぐ。
「ちょっとずつにしておきなさいよ。ま、私もなにが書いてあるのか気になるから、つき合うわ。保護者だしね」
「っていうか、一番気になってるのは冴子さんでしょ!」
美晴と一緒に由香里が声を上げて笑うと、冴子もわざとらしく舌を出した。
念願の原稿である可能性は少ないだろう。でも、美晴が鍵を開ける理由になるなら、そういうことにしておこうと冴子は思った。