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虹色の霧の国  作者: 永井 華子
第一章 生まれ育った世界
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2.二十歳の誕生日

 美晴が住むマンションから徒歩十分、ゆるやかな坂道を下りる途中に花島家はある。美晴は通い慣れた道をいつも通りに歩き、玄関前のインターフォンのボタンを押した。


「美晴ちゃん、いらっしゃい! ハッピーバースデー!」

 応答の前にドアが開いて由香里の母、冴子が出てきた。

「ありがとう、冴子さん。おじゃまします」

「さあ、上がって。もうすぐうちのも帰ってくるから、そしたら乾杯ね!」


 美晴をいつも笑顔で迎えてくれる冴子は一段と明るく、由香里によく似た顔で笑う。今年、五十歳を迎えるはずだが若々しく、見た目には年齢不詳である。


「もう、ママ張り切りすぎだって。ワインも何本買ってきたのよ」

「あ、まだ十九歳の子はジュースで乾杯よー」

「えー、数時間なんだからいいじゃない!」


 靴を脱いだところで、美晴は持ってきた紙袋を由香里に渡した。

「冴子さんのワインってきっと上級者用でしょ? うちにあったの持ってきたから、由香里と私は日付変わったらこれで乾杯しよう」


 由香里は受け取った紙袋からワインを取り出し、大声で驚きを表す。

「すごーい! これ私たちが生まれた年のじゃない! え、うちにあったってことは……」

「うん、お母さんが買ってたみたい。だからここで由香里と飲むのが正解だと思って持ってきた。ちょっと調べてみたけど、すっごくフルーティで甘口なんだって」


 先にリビングへと向かった冴子の声が、美晴たちの耳に届いた。

「そっか先生、用意してたんだね」


「ハッピーバースデー! 美晴ちゃん。由香里もフライングハッピーバースデー!」

「パパ! 私をおまけみたいに言わないでよ!!」

 由香里の父、健彦と冴子はビール、由香里と美晴はまずはコーラで乾杯する。冴子ご自慢の手料理がテーブルいっぱいに並んでいる。美晴は料理をを皿に取りながら、お礼を言った。


「冴子さん、健彦さん、ありがとう! 冴子さんのキッシュ久しぶりだー」

「美晴ちゃんの大好物だから、外せないね。しかし、声が本当に文乃先生に似てきたなあ。『健彦さん』って先生に呼ばれてるみたいだ」


 文乃は花島夫妻をそれぞれ名前で呼んでいた。美晴もいつの間にか、「由香里ちゃんのパパ、ママ」ではなく、名前で呼ぶようになった。

「そうかなぁ? 自分じゃよくわからないけど。まあ呼び方がお母さんの真似から入ってるしね」


「ふふ、ちっちゃい美晴ちゃんが『しゃえこしゃん』って舌足らずに呼んでくれるの、可愛かったわぁ」

 冴子は壁にかかっているたくさんの写真の中から、幼い美晴と由香里が並んで写っているものを眺める。


 文字通り、生まれたときからの付き合いである花島家には、美晴の写真もたくさんある。節目節目には、必ず一緒に記念写真を撮り、双方の家に飾られている。

 零時を過ぎ、めでたく由香里も二十歳を迎えたところで、今回も写真を撮った。あまり酒に強くない健彦は、あとは女子会でごゆっくり、と言って先に部屋へと退散していった。


「ねえねえ、美晴ちゃん。このワインと一緒に原稿用紙はなかったのかしら?」

 既にワインは三本目となっているが、冴子はまったく酔っていない。初心者ふたりは、まだ一杯目のワイングラスをちびちびとなめている。


「冴子さんまだ諦めてないんだねぇ。もしあっても、もう本にはできないんじゃない?」

 甘いワインで大人の気分を味わいつつ、美晴がこたえる。冴子が文乃の未発表原稿はないかと、訊いてくるのははじめてではない。


「そんなことないって。文乃先生の本は今でも増刷かかりそうなのよ。原稿があれば新刊も出せるわ」

「ほんと? それならバイト増やさなくても大丈夫かな。助かる!」

 増刷がかかるのなら、美晴にとっては本当に助かることだ。就職するまでに収入がなくなれば、最悪はマンションを売るしかなくなる。


「本当よ、最初の本は確実だし、もしかしたら最後の本も一緒にかかるかも。確かにベストセラーではないけど、固定ファンから広まって一定数は売れてるのよ。着実にファンは増えてるんだから」


「ママはファン第一号だもんねー」

 ペースがはやくなってきた由香里が、自分のグラスにワインを注ぎながら茶化す。

「そうよー。文乃先生の文章をはじめて読んだ時から熱狂的ファンなんだから。この文章を活字にすることが私の使命だって直感したのよ。育休中だったけど、編集長に連絡して『一ページ空けて!』って叫んだわ」


 文乃が生きている頃から何度も聞かされた話だが、冴子はいつも熱く語る。本気で文乃が書いたものを愛してくれている。美晴は文乃が嬉しそうに、でも恥ずかしそうに、もうやめてよ、と言っていた顔を思い出した。


「お母さん言ってたわ。実績のある作家がコラムを書くのとはわけが違う。無名の小娘に雑誌の連載持たせてくれるなんて聞いたことない。冴子さんには感謝しかないって」


 冴子の顔がアルコールのせいではなく、赤くなった。

「お母さん言ってなかったの? もう、感謝の言葉はちゃんと伝えないとダメだよねえ。失礼な母でごめんね」

「いや、ありがとうとは何度も言ってくれてたけど、そんな風に思ってくれてたなんて知らなかったから、驚いた」


 感謝だけじゃ足りない、花島家の人たちのおかげで母とふたりでも寂しくなかった。仕事だけでなく、家族の輪に入れてくれて、今も大切にしてくれている。美晴がひねくれずにいられたのは、間違いなく花島一家のおかげだ。

 はじめてのお酒は美晴の心をちょっと素直に、そして感傷的にしたのかもしれない。


「それで、原稿はなかったの?」

 話題は逸れなかった。さすが敏腕編者と感心しつつ、美晴は疑問を口にした。

「前から思ってたけど、冴子さん、原稿があるって確信してるよね? お母さんがなにか言ってたの?」


 由香里が冴子のグラスにワインを注ぐと、すぐにくいっと半分なくなる。

「うーん、なんていうか、もっと書きたいことがあったんじゃないかと思うのよね。一度、小説を書いてみないかってきいたことがあるのよ」

「小説?」

「そう、文乃先生は物語を書ける作家だと思ったのよ。私だけじゃなくて、前の編集長も、書いたものがあるなら文芸部に紹介するよって言ってたくらい」


 思いもよらない言葉に美晴は驚いた。文乃の本は全て読んだが、それはエッセイばかりで小説は一切なかった。「物語を書ける作家」という印象も美晴は感じたことはないが、プロにはそういうことがわかるものなのか、と不思議に思った。


「それで、お母さんはなんて返事したの?」

「……それが未だによくわからないんだけど、物語は書きたくないって。『現実をフィクションにすることはできないから』って言ったの」

「ああ、それでママは原稿があるって思ってるのね。()()()()()()ってことは、書けない、じゃないもんね」


 顔が赤くなってきた由香里は、チーズとワインに交互に手を伸ばす。美晴はそろそろ止めたほうがいいかな、と様子をうかがう。


「そういうこと。本当は書きたかったんじゃないかって思うのよね。で、もしかしたら書いていたものがあるんじゃないかって」

「でもさあ、ママになにも言ってないなら、文乃先生は外には出したくなかったんじゃないの? 書いてたとしても」


 痛いところを衝かれた冴子は、バツの悪そうな顔をしたが美晴のほうを向いて肩をすくめる。

「……もちろん、それは承知の上なんだけどね。一ファンとして読みたい気持ちが抑えられない……のと、美晴ちゃんになにか残してるんじゃないかって思うのよ」


 思いの外、真摯な冴子の眼差しに少し気おされながら、美晴はこたえた。

「私に読ませたいものを遺してるってこと?」

「そう、だから出版のことは置いておいても、もしあるのなら美晴ちゃんは読んだほうがいいと思うのよ」


 冴子はなにか確信する根拠を持っている、そう感じた美晴は心当たりを打ち明けることにした。

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