17.リューレ大公
ハンスが開けた扉から入ってきた人は、手足が長く長身の男性。一見痩身だが、黒いロングジャケットの中は鍛えられて引き締まっていることがわかる。明るいヘーゼルの髪に精霊石の瞳。
美晴のものよりも暗い色合いのそれは、闇に光るオーロラのようだ。その美しい瞳が美晴を見つめている。あの小瓶に入っていた精霊石と同じ色がそこにある。
リューレ大公クラウス・ヴィルフリート、美晴の父親である。
ラルフが立ったことに気づいて、美晴も扉に向かって立ち上がった。クラウスはソファに掛けると、美晴たちにも座るように促した。先ほどのメイドがお茶を用意して、美晴とラルフの分も淹れ直す。
クラウスがティーカップを持つ所作は流れるように美しかったが、一口飲んでカップを置くとき、カチンとやや大きな音がした。
その間、美晴は自分にそっくりなその顔を、まばたきも忘れて見つめていた。
ゆっくりとティーカップから手を離すと、クラウスも美晴を見つめる。
一瞬の間に長い時間が静かに流れていった。
「ミハル、だね。ありがとう、会いたかった。ずっと」
『ミ・ハ・ル』と一音一音を区切って呼びかけられた。はっきりと発音することが難しいのだろう。
美晴はそこではじめて言語が異なっていることに気がついた。文字が違うのだから考えてみれば当然だが、ラルフとの会話の中では全く違和感がなかった。ここにもなにかの力が働いている。
「はい、美晴です。私も会いたかったです。……会いに来ました」
美晴の素直な気持ちが自然と口から放たれた。そう、会いたかった、「お父様に会いたい」と泣いて母を困らせたこともあったではないか。そのときの涙をこらえる母の顔も、今、ありありと思い出せる。
ラルフが静かに立ち、エッカルトとともに部屋を出ていった。ふたりきりになり、互いの息遣いさえ聞こえるようにしんとした空気の中、クラウスは立ち上がって美晴に手をのばした。
広い腕の中に抱きしめられると、美晴の瞳から涙がこぼれ落ちる。ああ、この人が会いたかった父なのだとわかる。
「会いたかった。これまで、なにもしてやれなくてすまなかった。本当によく来てくれた」
「お父様と、お呼びしてもいいでしょうか」
クラウスの腕の中は温かく、ずっと求めていたものだった。
「もちろんだ。ミハルの父親は私なのだから」
「お父様、母が、『ありがとう』と伝えて欲しいと」
「ミハル、アヤノは……」
クラウスが美晴の顔をのぞき込んで、頬を長い指でぬぐう。クラウスの瞳にも涙が溜まっている。
「三年前に亡くなりました。あちらではかなり珍しい病気で、手の施しようがなかったのです。母は私がお父様のことを思い出さないようにしていたので、今までお伝えできなくて。ごめんなさい」
「そう、か。アヤノが? 記憶を閉じていたのか」
「私が十八になったら話すつもりだったと、この春にみつけた手紙にありました。その時に一緒にこちらへ来るか、母がひとりでお父様のところへ帰るのか、私に決めさせるつもりだったようです。母は、もう一度お父様に会いたい、私を会わせたかったと。ただ、私を連れて行くことが、私にとってよいのかどうかわからないと。あちらとこの国とではあまりに世界が違うので。実際、驚きました……」
「そうだろうな。アヤノをこちらへ迎えたときも、彼女はかなり驚いていた。夢に違いないと、最初は話も聞いてくれなかった……」
そう言って視線を落としたクラウスの瞳に、美晴のペンダントが映ると、彼の表情はひどくゆがんだ。同時に涙がこぼれ落ち、クラウスは自分が涙をこらえていたことにも気づいた。
そのまま涙とともに顔を両手で覆ってしまったので、美晴は待つことしかできなくなった。
「……ミハル、申し訳ない。わかっていたのだ、もうアヤノには会えないのだと。だが、それを認める覚悟がまだ足りなかったようだ。すまないが、今日はひとりで過ごさせてもらいたい。あとのことはラルフに任せるから、あれと話して欲しい」
「わかりました、大丈夫です」
クラウスはもう一度美晴を抱き締めると、肩を落として部屋を出ていった。
ひとり残された美晴は、とても重要な事実に気づいた。どうして今まで思いいたらなかったのだろう。
――お父様は、私のために最愛の人と二度と会えなくなってしまった――
文乃の死因はイェマント氏病です。




