16.ラルフ・ジークハルト・クヴァンツ
通された部屋は、美晴が想像する、西洋貴族のお邸のイメージそのままだった。毛足の長い絨毯、高い天井、美しい蔓薔薇模様の壁、その壁にかかる大きな額装の絵画、そして重厚なテーブルにソファ。ととのい過ぎていて、まるで映画のセットのようだ。
機械の類は見あたらない。印象の通り、近代のヨーロッパに近しい文化の世界なのだろう。
どうぞお掛けになってお待ちくださいと、ハンスに言われたが、美晴は状況に圧倒されて固まっていた。対象的に、ラルフはごく自然にソファに陣取った。その後ろに、先触れに向かっていたエッカルトがすっと立った。
「エッカルト、ご苦労だったね。叔父上のご様子は?」
「ラルフ様のご想像の通りかと」
「やっぱりね。まあ、仕方ないか。ああ、ローザリンデ様、どうぞお掛けください。殿下はすぐにはいらっしゃらないでしょうから、ゆっくり待ちましょう」
邸に着く前とはがらりと変わって、砕けた様子になったラルフに驚きつつ、美晴は彼の正面に座った。はかったかのようにメイドと思われる若い女性が部屋に入ってきて、お茶を淹れてくれた。
「あの、ラルフ様は父とはどのような……」
「『様』はいらないですよ。貴女のほうが私よりはるかに高位のご身分ですから。先ほどまでは部下の手前、取り繕っていましたが、本来の私はこのような人間ですので、どうかご容赦ください。エッカルトも部下ですが、もともと私の乳兄弟だったものですから、取り繕う必要がないのですよ」
「はるかに高位のお方だとわかっていらっしゃるのなら、ローザリンデ様の前でも取り繕ってくださいよ」
呆れた様子でエッカルトがこぼすが、ラルフは意に介さない。
「叔父上の邸でかしこまって過ごすのはもう無理だな。それにローザリンデ様は、陛下に言いつけたりなさらないだろう」
そろそろ私が言いつけますよ、とエッカルトは言ったが、ここでのことなら陛下もご存知だ、とラルフはいなした。
「ああ、申し訳ない。まあそういうことなので、私にはそう緊張しないでください。ええと、そうですね。私は大公殿下、つまり貴女の父君の義理の甥なのです」
ラルフはかなり意識して作った笑顔を向けて、会話の糸口を探した。
「貴女の父君は国王陛下の弟でいらっしゃいますが、私の母は王妃陛下の妹なのです。ですから血縁ではないですが、甥にあたります。私の家は侯爵家ですが、私自身は気楽な三男なもので、子どもの頃からかなり自由に育ったのですよ。それで、遠慮なく懐くものだから叔父上には可愛がっていただいて今にいたるわけです」
「自由気ままなのは生来のものですよ」
エッカルトがため息混じりにつけ加えると、ラルフはどちらでも同じことだと笑った。
「だからローザリンデ様と私も義理の従兄弟ということになるのかな。私は王太子殿下の母方の従弟、貴女は父方の従妹ですから」
美晴は頭の整理が追いつかず、茫然とする。そして目の前で屈託なく笑うラルフに、軽い苛立ちを覚えていることに気づき、驚いていた。
貴族の三男坊、自分で言った通り自由闊達に育ったのだろう。不自由なく育ったことに嫉妬しているのだろうかとも思ったが、美晴も母子家庭とはいえ、どちらかといえば恵まれていたほうだ。
貴族と比べれば裕福ではないだろうが、生活に困ったことはない。両親が揃っている由香里を羨んだこともない。なのに、たった数時間前に出会ったばかりのよく知らない人に、なぜこのような複雑な感情を抱いてしまうのだろう。
「こちらにも子どもの頃からよく遊びに来ておりまして、貴女の母君にも可愛がっていただきました」
笑顔を消したラルフの言葉に、うつむきかけていた美晴は顔を上げた。
「母君のお腹にいる貴女に『早く生まれておいで』と、話しかけたことをよく覚えていますよ」
ラルフの表情が騎士としてのそれに戻っている。美晴は彼の目を見て、続く言葉を待つ。
「一週間ほど前、王宮に魔女が現れて予言を告げました。『異界の扉が開く』と。我々が真っ先に思い浮かべたのは、貴女のことでした。陛下はまず大公殿下をここ、王都へ呼び寄せられ、貴女が現れる可能性のある全ての場所へ近衛騎士を派遣しました。そして、最も可能性の高いあの場所へは、貴女に縁のある私を遣わされたのです」
「最も可能性が高い……?」
「あの湖の洞窟は、貴女の母君に深く関わりのある場所だということです」
では、美晴がこちらへ来ることは決まっていたのか、それとも美晴の決意がその予言をもたらしたのか。自分の意思で決めたはずなのに、やはり何かの力に動かされているだけなのか。
美晴は不安と、いくばくかの恐怖を感じて沈黙した。
「つまり、私がお迎えにあがったのは陛下のご命令です。陛下は貴女をすぐに王宮へお連れするように仰るでしょう。まず先に大公殿下のもとへということは、ご承知くださいましたが、今頃私からの報告を、苛々しながら待っていらっしゃるはずです。少なくとも今日中に一度報告をしなければならない。ですから、貴女がこちらへいらした経緯を少しおうかがいしたいのですが」
「はじめから母ではなく、私が来ると思っていたのですか?」
美晴の問いにラルフは固い表情でうなずいた。文乃が来られない理由もわかっている、ということだろうか。
「私は、父の名前とこの国の名前しか知りません」
「え!?」
ラルフとエッカルトが同時に声を上げた。
「今年、母の遺品の中から精霊石がみつかりました。一緒にあった母の手紙を読んで、それが父から届いていたことを思い出したんです。毎年、誕生日の頃に届いた精霊石を『お父様からの贈り物よ』と見せられる。そして『今は忘れていなさい』と母に言われて、本当に忘れてしまう。それをずっと繰り返していたんです」
「記憶を閉じられていたということですか?」
「わかりません。あちらには精霊石や、その力のようなものは一切存在しません。そのようなことができるとは思いもしなかったから、思い出したときは混乱しました」
「なるほど、なぜそうなさったのかはわかりませんが、精霊石があれば、貴女の記憶を閉じることは母君には可能だったでしょう」
「私が十八になったら、一緒にこちらへ渡るかどうかを相談するつもりだったそうです。ですが、十七の年に亡くなりましたので……」
そのとき、扉を叩く音が響いた。