14.異世界へ赴く
七月末、大学の前期試験が全て終わると、美晴は予定通り休学した。
蝉の声が大音量で響く暑苦しい晴天の日に、花島一家は美晴のマンションに集まった。
朝からずっと泣き続けている由香里は、声をかけると号泣するので、美晴は苦笑しつつ見ていることしかできない。
「すっかり片づいちゃってるのね。言ってくれれば手伝ったのに」
冴子は落ち着いた様子で部屋を見回すが、複雑な気持ちは隠せない。
「もともと持ち物は少なかったから、そんなに大変でもなかったよ。お母さんもかなり処分してたみたいなんだよね。神野さんのものとかは、なにもなかったし。今残ってるものは冴子さんたちが使うかなと思ったものだけだから、いらなかったら処分していいからね。あと、ここも好きに使ってもらっていいし、なんなら賃貸に出してもいいんじゃないかな」
「なにを言ってるんだ、ここは美晴ちゃんの実家なんだから、いつでも帰ってこられるようにしておくよ。心配いらない。ああ、でも実家はうちのほうだ。ちゃんと花島家へ帰ってくるんだよ」
健彦はいつも通りに穏やかに笑う。摩訶不思議な異世界の存在について、まだ半信半疑であるようだ。
「うん、ありがとう。本当にお世話になりました」
耐えかねた由香里が涙をぬぐいもせず、大きな声を出した。
「美晴! 行かないで。もううちの家族でしょう? ずっと一緒にいられるでしょう? 行かないで……」
由香里の大声には驚いたが、美晴は取り乱すことなく落ち着いている。
「由香里、ありがとう。由香里は私の親友でいて欲しいの。家族じゃなくて、大切な親友。冴子さんと健彦さんは大切な親友の両親。そのままでいてほしいんだってわかったから、ずっと親友でいて?」
由香里の涙は止まらない。そしてより大きな声でしゃくり上げた。
「美晴、そうじゃない!」
「……え?」
「これだけ泣いて引き留めてる親友を振り切って行くんでしょう。理屈で説得しないで、『お父さんに会いに行くの!』でいいんだよ。そしたら、私なにも言えなくなるんだから……」
難しく考え過ぎなのよ、と由香里は美晴に抱きついた。
「そうだな、美晴ちゃんがいろいろ考えてしまうのは仕方がないことだけど、娘が父親に会いたい。父親も娘に会いたい。当たり前のことだよ。僕は美晴はちゃんの親代わりにはなれるけど、やっぱり親ではない。それは由香里の父親が僕だけってことと同じだよ。美晴ちゃんのお父様も僕に父親の座を譲る気はないと思うよ」
健彦の言葉は本心だと美晴はわかった。美晴が悩んでいたことなど、お見通しだったのだ。きっと冴子にも。
「美晴ちゃんは小さい頃からしっかりしてたから、お母さんがひとりで頑張ってるってわかってたのよね。だから、人に甘えることが苦手になってる。子どもは好きなだけ甘えていいのよ、とくに親には。バランスよく甘やかすのは親のほうが考えるの。その辺りは文乃先生もあんまり上手ではなかったわね」
だから、と冴子が美晴の肩に手を置いて目を見る。
「お父様には、しっかり甘えなさい。遠慮なく。二十年分のわがままを言っていいのよ。もう引き留めないから、その代わり笑顔で見送らせてちょうだい。絶対に幸せにならないとだめよ。約束して。私たちはずっと、あなたの幸せを願っているから」
抱きついたままの由香里が美晴の耳元で言った。
「お父さんに会いたいんでしょ? 行ってらっしゃい。でも必ずどうにかして連絡して。約束して」
わかった、と美晴も由香里を抱きしめる。そのまま冴子と健彦に笑顔を見せた。
「冴子さん、健彦さん、ありがとう。行ってきます」
ふたりは一緒にうなずくと、冴子が由香里を引きはがした。
「さあ、じゃあやってみる?」
「うん」
美晴がペンダントを取り出して身に着けると、精霊石の中の虹色の渦がいっそう濃くなったように見えた。
「そのワンピースにしてよかったわね。少なくともいいところのお嬢さんには見えるわ」
冴子が満足気に笑う。大学生が着るには大人っぽいハイブランドのワンピースドレスは、冴子からのプレゼントだ。
落ち着いた光沢のシルクタフタの生地の色はサックスブルーだが、精霊石の輝きを穏やかに反射して美しい波を描いている。
「美晴、ちゃんと『お父様』って言うんだよ。相手は王子様なんだから」
「そこなの? 気にするとこは」
美晴は吹き出したが、由香里は思いの外真剣だった。
「美晴は黙ってればちゃんとお姫様に見えるわよ」
「なるべく黙ってるようにするわ」
小瓶の蓋を開けて精霊石を全て左手に乗せると、最後に届いた十九個目の石もその上に置いた。右手を重ねて石を覆っても、指の間から光がこぼれる。
テーブルの上に置いた文乃の手紙に書かれた文字を見つめる。美晴にはひとつひとつの文字は読めないが、そこに書かれた文章は理解できる。一度ゆっくり深呼吸をすると、口を開いた。
「クラウス・ヴィルフリート・ニーベルシュタインの子、ローザリンデ・美晴は、精霊の導きによってアンティリアの地に赴く」
全ての精霊石が一際強く輝き、虹色の渦がゆっくりと混ざり合う。渦から白い光が生まれ、美晴を包んでいく。
まぶしさに由香里たちが目を開けていられなくなった瞬間、美晴は光に完全に包み込まれた。
由香里が恐る恐る目を開けたとき、そこに美晴の姿はもうなかった。