13.花島家
沈みかけた夕陽が、最後の光を懸命に広げている。その夕陽に向かって坂道を下る。
いつもなら、夕陽を背にして上っていた家路を逆行していく。
駅までの一本道の途中で、路地に入った並びの中に花島家はある。
玄関先で由香里と沢崎が話しているのが見えたとき、ドアが開いて冴子が出てきた。遠慮する沢崎に、上がっていけと言っているのだろう。ここに健彦が帰ってきたら、少しむっとしながら、それでもきっと沢崎を迎え入れるのだ。
花島家の中でやはり自分はお客様なのだ。由香里は親友で、冴子はその母親。
花島家はとても居心地がいいけれど、それは美晴が外の人間でいるからなのだ。花島家は美晴がいなくても完結している。
――ああ、そうか。私はこの一家を外から見ているのが好きなんだ。中に入りたいわけじゃなかった――
美晴が路地の入り口に立っていることに気づいた冴子が、声をかけた。
「美晴ちゃん、おかえり。どうしたの?」
「……ただいま!いやー、ちょっとニヤニヤしちゃって」
上手く誤魔化せただろうか、冴子はなにか気づいたかもしれない。少しぎこちない動きで近づいていく。
「沢崎先輩、こんばんは。今日も由香里とシフト一緒だったんですね」
「わざわざ由香里を送ってきてくださったの。だから、夕飯にお誘いしたのよ」
「冴子さんの料理は美味しいですよ〜。先輩ラッキーですね。冴子さん、夕飯のメニューは?」
「今日はロールキャベツです!」
「わあ、楽しみ!」
隣で真っ赤になっている由香里を横目に、冴子とふたりで沢崎を追い込む。
「えーっと、じゃあご馳走になろうかな。お邪魔します」
「よかった、ではどうぞ」
冴子が沢崎を招き入れ、美晴も続く。
「よかったね、由香里。でも、健彦さんは平気かな」
「パパは今日は遅いって……」
「ああ、なら大丈夫だね。いきなり鉢合わせたらさすがにねえ」
「もう、また面白がって!」
美晴は笑いながら、由香里と並んで玄関へと入った。
冴子のロールキャベツを堪能すると、沢崎はそそくさと帰って行った。冴子はもっとゆっくりしていけばいいと言ったが、健彦が帰宅する前に立ち去りたいのだとわかっているので、強く引き留めはしなかった。
由香里が沢崎を見送りに出るのをあえて邪魔せず、美晴と冴子は後片づけをする。
「冴子さんのロールキャベツ、大きくて美味しいよねー。今日のコンソメスープのが一番好きだわー」
「文乃先生は作らなかった?」
「作ってくれたけど、ちっちゃいの。お稲荷さんみたいな大きさで、お箸で食べるんだよ」
「あはは、どこまでも和洋食なんだね。でも小さいのをたくさん巻くほうが手間がかかってるでしょ」
「そっか、確かにそうかも。でもやっぱりフォークとナイフでかっこよく食べたいじゃない」
冴子に食器を渡しながら、美晴はあらたまってはっきりと喋る。
「冴子さん、この前の養子の話を進めてください」
冴子もまた、真剣な表情で応じた。
「わかったわ。じゃあ伊原先生にお願いするから、近いうちに一緒に事務所にうかがいましょう」
「うん、よろしくお願いします。……冴子さん、ありがとう」
「もう、なによ。うちの子になるんだから、これからは遠慮なしよ、お互いに」
少し寂しそうに笑った冴子は、美晴の思いに気がぬいているかもしれない。
「今までだってなんにも遠慮してなかったよ?」
美晴は笑ってこたえるが、自分もきっと冴子と同じ顔をしているのだろうと思った。
一か月後、文乃の遺産相続のときにお世話になった伊原行政書士事務所へ行き、美晴は正式に花島家の養子となった。
書類上は花島家へ転居し、大学には休学届を提出した。
ここまでしておきながら父に会いに行けなかったら、中々滑稽だなと、美晴は他人事のように思った。
準備は整ったけれど、迷いがないと言えば嘘になる。だが、会いに行かなければ後悔する。それだけは美晴にとって確かなことだった。
冴子に鍵を渡されたときに感じた、この世界が現実ではないような、自分が自分でなくなるような不安はあちらへ行けばなくなるのだろうか。
追い立てられているのか、それともただ逃げたいだけなのか。
いっそのこと美晴の意思など関係なく、父が呼び寄せてくれればいいのに、とさえ思う。
そうすれば、きっと父の元へ飛び込んでいけるのに。