12.居場所
美晴は、淡々とマンションの中を片づけはじめた。
冴子はこのマンションを処分しないだろう。だが、美晴が帰らなければ、いずれ考えなければならなくなる。
そのときに、できるだけ負担にならないようにしたい、と美晴はまだ決めかねている未来を秤にかけている。
気に入ったものしか身のまわりに置かないから、もともと持ち物は少ない。それがこのような形で役に立つとは思わなかった。
自分の身に起こっていることが、どこかまだ他人事であるような気もしている。
――本当に、異世界が存在するのかしら。でも実際に、精霊石は目の前に現れた。お父様が私に送ってくれた精霊石が――
冴子や由香里が使うかもしれないものを残して、彼女たちの趣味にあわないと思うものを処分する箱へ入れていく。
日本に残る選択をした場合でも、最小限からやり直すことは悪くない気がする。
これまで文乃の遺品に手をつけなかったのは、その必要がなかったからだが、母に触れて悲しむ自分に気づきたくなかったのかもしれない。
少ないながらも残っていた写真、メモ、そして母子手帳。
美晴が母に愛されていたこと、母を愛していることを確認するには充分なものがあった。
文乃の少ない遺品は、すでに整理した様子がうかがえた。
自らの死に支度を終えていたのか、いずれ父のところへ行くことを考えていたのか。今となっては、後者だったのかもしれない、とも思う。
2DKのマンションは、文乃がいた頃から広い空間だったが、ひとりで暮らすにはやはり広すぎる。
片づけが終わったら、本気で花島家に引っ越してもいいかもしれない。快く受け入れてくれる、と信じられることが素直に嬉しい。
浜辺に寄せては返す白波のように、さまざまな思いが去来する。母の面影、子どもの頃の記憶、由香里と過ごした時間、そこには存在しない父。
全てをなかったことにしたら、どうなってしまうのだろうか。考えてみると、容姿が変わりはじめたのは、文乃が亡くなってからだ。
記憶を閉じた、と書いてあった。それ以外にも、文乃はなにかを施していたのかもしれない。なにしろ、異世界の摩訶不思議な力が働いているのだから。
文乃を待っていたであろう父に、なにも伝えることなく生きていくことが自分にはできるのだろうか。父にだけ絶望を与えて、全てを忘れてしまえるのか。忘れてしまっていいのか。
美晴自身も、割り切れない思いを抱えていくことになるのではないだろうか。それとも、父の中からも美晴の存在は消えてしまうのだろうか。
由香里に言ったように、美晴は文乃の過去についてもほとんどなにも知らない。
九条家のことも聞いたことはないし、父についての話も、精霊石が届いていたことを思い出しただけだ。
子どもの立場からすれば、自分の生まれる前の出来事などは大昔のことに思えるし、知らなくても日々は過ぎていく。
だが、知ることを望まないのと、望めないのとでは大きく違う。
これまでは望んでいなかった。これから先、望めなくなることを後悔はしないだろうか?
母方の出自を名のることは今後もできないだろう。父親が誰かわからないという事実も変わらない。花島家の養子になったとしても、それはついてまわる。
美晴の立場は、今まで考えていた以上に不安定なものなのだと、気がついた。社会に出てなにかあったとき、きっと冴子たちは助けてくれるだろう。だが、その労力は本来は由香里ひとりに費やされるべきものなのだ。
「そっか、私やっぱり寂しいのか……」
血は水よりも濃いという。それは絆であり、枷でもある。花島一家との間には、絆のようなものは確かにあるが、それは「ものすごく親しい友人関係」以上にはならない。だが、実の父のことをなにも知らないという枷は残る。
父のもとへ行けば、枷を絆にすることはできるのだろうか。母と父の間には確かな絆がある。父はそう信じて、精霊石を送り続けてきたはずだ。
母のもとに届かなかったとき、なにを思ったのだろう。
美晴に届いた精霊石には、どんな想いが込められているのだろう。
母が愛した父はどんな人なのだろう。
父に会いたいという気持ちよりも、父親という存在がいない寂しさが上回っているのかもしれない。
これからの人生に、陰が残る不安もある。こんな後ろ向きな気持ちで会いに行っても、父は受け入れてくれるだろうか。父の国に居場所がなくても、帰りたくならないだろうか。
だからといって、花島家に頼り続けることもできない。どんなに彼らが優しくても、美晴自身がそれを当然だと思うことはない。
次々と浮かんでくる感情が、澱のように美晴の心に溜まっていく。
『気持ちが落ち着かないのに、ひとりでいるのはよくないわ』
冴子の言葉を思い出す。
――冴子さんが言ってたのはこういうことね。まったく考えがまとまらない――
とりあえず、花島家へ戻るために、急いで手を動かした。このマンションにひとりで居ると、辛くなるだけだ。
でも、花島家も自分の居場所ではないということもわかっていた。