第3話
追い詰められた将は、いよいよ奈落の底に足を踏み入れる。
ハラハラする沖をしり目に、家族はじわりとその形を崩し始める。
翌日、当の悟様は、何食わぬ顔で出社なさったそうでございます。そして、そのまま本家にいらっしゃったのでございます。
「良恵から何か連絡はなかったのか?」
「いいえ、ございません。」
「ちぇっ、どこに行きやがった!」
良恵様と連絡が取れないのは悟様も同じでございました。しかし、私が良恵様の居所を知らないと分かると、こちらで夕食とシャワーをお使いになり、悟様はさっさとどちらかにお出かけになったのでございます。
違和感を覚えた私は良恵様のご実家にお電話差し上げて、想像を絶するような事実を知らされたのでございます。
「沖さん。なにもご存知ないのですか? 本能寺家といえば、あれほどの有名な資産家。それなのに、ご自分の孫が亡くなってしまったことも、ご存じないのですか」
お答えのしようもございませんでした。その頃、確かに避暑地に向かう高原の列車が事故を起こしたということは存じておりました。しかし、まさかその列車に良恵様と真澄様が乗車なさっていたとは、想像だにしなかったのでございます。
私は大変動揺してしまいました。すぐさま将様に連絡をいれ、指示を仰ごうとしたのでございます。悟様は、どちらにお出かけになったのかわかるはずもございませんでしたし、ご自身の携帯電話も、めったにお出になることはございません。
しかし、どういうわけか将様の電話は呼び出し音を繰り返すのみでございました。
「沖さん、早く車を回してくださらない?」
将様の奥様、美和様が、秀人様のお稽古事に向かわれる準備をなさっておいででございました。
「若奥様、大変でございます…」
「ええ、ほんとに大変ですのよ。今日は秀人がデビューするコンサートの最終打ち合わせですのに、こんな時間まで何をなさっていたの?」
「申し訳ございません。しかし、良恵様と真澄様が事故に遭われたと連絡が入りまして…」
美和様は良家のお嬢様として、あまり世の中のことに関心をお持ちにならないまま嫁いでおいでになったからでございましょうか。このようなお話には、こちらが驚いてしまうほど関心をお持ちにならないお方でございました。
「まあ、大変ですこと。では、なにかお見舞いを送っておいてくださいね。それより早く車を。」
「お母さん、おばぁさまを差し置いてあまり余計なことをなさらない方がいいですよ。良恵さんと言えばまだ本能寺家の人間としておばぁさまには認められていらっしゃらない人ですよ。そっとしておいた方が身のためではないですか。
沖さん、他人のことなどどうでもいいから、早く車を!」
秀人様は将様の一人息子で、本能寺家を継ぐ大切な後継者でいらっしゃいます。幼い頃から多種多様なお稽古事をこなされる聡明なお子さんでございました。秀人様もまた、ご自身の目指すべき先に目を向けるのに一生懸命で、親戚縁者のことについては関心をお持ちにならないのでございました。
ただ、それは無理もないことかもしれません。どんなに大きなグループ会社を経営していても、ちょっとした油断であっという間に買収されてしまうような時代でございます。多くを学び、勝ち抜いてゆくことこそが、秀人様の使命でもあるのでございますから。
おっしゃるままにお車を回し、某音楽大学に秀人様をお連れしたのでございます。秀人様はそのまままっすぐに前を向いて先をお急ぎでございました。
私はそのまま車内でも将様への連絡を試みていたのでございます。しかし、おかしなことにその日、将様はなかなかお電話に出てくださらなかったのでございます。
その間にも、美和様がご友人と歓談なさる茶話会の準備や、秀人様のコンサートの演出をなさる大学の教授へのお礼の品の手配など、あれこれとお急ぎの用をこなさなければならないのでございます。何度目かのコールでやっと将様にお電話がつながりました時には、秀人様はすでにご帰宅で、美和様とご夕食を済まされた時でございました。
「沖さん。私は先に休みますので、明日の茶話会の準備はお願いしますね。秀人ももう少し睡眠時間を取らないと体に障るわよ」
「お母さん、どうぞお休みになってください。僕にはそんな惰眠を取るような趣味はありませんので、お気になさらずに。」
「まあ、失礼だわ。沖さん、何か言ってやってちょうだい。困った子。ほほほ」
奥様のおっとりとした笑い声がお部屋へと消えていく頃、躊躇いがちにお電話に出られたらしい将様の息遣いがしていたのでございます。
お電話から聞こえてくる将様の声で何かが起こってしまったことは察しが付きましたが、現実は、私の想像を超えるものでございました。
「すまない。とんでもない事をしでかしてしまった。私はじきに警察に連行されるだろう。沖、残された家族のことを頼む。父に連絡を取ってもらいたい」
「あの。何があったのでございましょうか」
「佐上を、殺めてしまった。悟が出社したのを嗅ぎつけて事実を聞き出した。そこまでなら私も頭を下げたものを、あの男は悟をうまく言いくるめて会社を乗っ取ろうと計画していたのだ。父が苦労して立ち上げたこの本能寺グループの中心的存在であるこの会社を…!あの時の恩を忘れたというのか。」
将様は相当に興奮なさっておいででした。私はすぐさま専任弁護士の山村様に連絡をつけたのでございます。
将様がおっしゃるあの時の恩。それは私にとっても衝撃的な出来事でありました。まだ将様が10歳になられたばかりの頃のことでございます。先代の立ち上げられた会社がやっと起動に乗ってきたばかりだというのに、奥様が急な病であっけなくお亡くなりになってしまって、先代にとっても将様にとっても命の重みを一番敏感に感じ取っていらした頃でございました。
お墓参りをなさって海のそばにある墓地から出てこられたご一行の目の前で、一台の車が勢いよく海に飛び込んだのでございます。
あまりの衝撃に何も出来ずに立ち尽くす我々をしり目に、先代と将様はすぐさま海に飛び込んでいかれたのでございます。
そのとき、車内にいらっしゃったのがまだ幼い佐上様と佐上様のご両親でございます。佐上様のご両親は残念ながら意識を取り戻すことなくお亡くなりになってしまいましたが、佐上様だけは奇跡的に意識を取り戻すことが出来たのでございます。
その後、ご親戚の元に身を寄せていらした佐上様は立派に成人され、先代の会社に就職なさったのでございます。
佐上様と将様は競うようにして切磋琢磨なさいました。ライバルでもあり、親友でもある、そんな関係を築いていらっしゃったようにお見受けいたします。だからこそ、そのお電話の内容は、いかにも衝撃的ですぐには受け入れがたいものでございました。
その日を境に、本能寺家の様子は一変してしまったのでございます。弁護士の山村様は大変頼りになるお方でございます。将様のことはお任せできるだろうと思いました。しかし、美和様や秀人様には到底受け入れがたい事であろうと推測はしておりました。
案の定、テレビ局のスタッフがたくさんの機材を従えて本能寺の邸宅の周りを取り囲んでしまいました。連日絶え間なくインターフォンは鳴り続け、邸宅の敷地内の宿舎に暮らす我々ですら、ストレスで具合が悪くなる者も現れたぐらいでございます。
翌日、たまりかねた美和様は、記者会見に応じることになさいました。たくさんの記者から矢継ぎ早に質問を浴びせられ、涙ながらに夫の無実を信じるとおっしゃった姿は、我々の涙を誘いました。そして、その横には、母を心配そうに見つめる秀人様のお姿がございました。
一方絹代様は、出張先でこの事件をお知りになると、こちらの邸宅にはお戻りにならず主だったマスコミに家族のしでかしたことを詫びる文面としばらく表立ったところで活動する事を自粛するという旨を書いたファックスを送られ、どちらかの別荘に避難なさったのでございました。
世の中というものは、常に流れているのだと思いました。いつまで続くのかと思われた取材合戦も、主だった人々の謝罪なり会見が行われると、その様相も様変わりしていったのでございます。
そして、4日後に起きた都心の銀行強盗立てこもり事件が注目を集めると、本能寺の邸宅にはいつもの静けさが戻ってきたのでございます。
「私、やっぱり殺人犯の妻なんて耐えられないわ。秀人さん、早々にお引越しの準備をなさってくださいね。新しいお家が見つかるまで、実家においていただきましょう。」
それは、あの記者会見で泣き崩れたお方の口から吐き出された言葉でございました。我々がいるのも一向にお気になさらないご様子で、さらりとおっしゃったのでございます。
「お母さんがどうしてもとおっしゃるなら止めませんが、そうなるとこの本能寺家の財産はどなたのものになるのでしょうね」
秀人様は世間話でもなさるようにそうおっしゃると、にっこりと微笑んでおいででございました。 その言葉に美和様の表情がキッと引き締まったのがわかりました。美和様や秀人様がこの邸宅を出られたならば、その財産は間違いなく絹代様とそのお子様方に流れるということなのでしょう。美和様は決心したようにおっしゃったのでございます。
「そうね。私としたことが、どうかしていましたわ。ここでしっかりと主人の帰りを待つことにいたしましょう。」
そのまましばらくの間は、不思議な空気が邸宅内に満ち溢れておりました。将様は裁判に掛けられるというのに、奥様は今までどおり何事もなかったように、お買い物や小旅行にお出かけになりました。秀人様もコンサートこそ悲劇のアーティストなどといわれておりましたが、しっかりとそれを成功させて、今は何事もなかったかのようにご勉学に集中なさっておいでです。
気がかりなことはございましたが、本当にこのまま将様がお帰りになるまでお待ちになるのだと、我々もほっと胸を撫で下ろしていたのでございます。
絹代様はというと、長い間、働き詰めでいらしたので、少し別荘でゆっくりするとおっしゃり、そのままになっておりました。そちらで働いております知人から、絹代様がお元気でいらっしゃるという話だけが、伝わってくるのみでございました。
このまま何事もなかったように暮らしていてよいのだろうか、私は自問自答する日々でございました。御主人である将様から、後のことを任せると仰せつかっているのでありますが、さて、美和様のなさりようを咎めることが許されることなのでございましょうか。
時折お越しになる山村様からは、将様の憔悴なさっている様子など伺うことができましたが、それを聞きながらも微笑んでいらっしゃる美和様の心持は、私には理解できないものでございました。
いや、それとも美和様は、気丈にも夫の危機に家族を心配させまいとなさっているのかもしれないと、揺れ動く思考の中にいたのでございます。
美和様のお考えがはっきりと見て取れたのは、見慣れぬ男がこの邸宅を訪ねてきた、あの日でございました。
美和様はその男を応接室に通し、所払いをなさってなにやらご相談なさっているようでございました。いかにも素性のはっきりしない印象のその男は、邸宅に一歩足を踏み入れるや、ひゅうっと口笛を吹いて、にやにやと不快な笑みを浮かべておりました。
どうやら探偵か何かのようでございます。くたくたのスーツ、土ぼこりに汚れた革靴はいかにもそんな印象でございました。
「美和様。失礼ですが、あのような怪しげな人物を、この邸宅に招かれるのはいかがなものかと。。。」
「いいのよ。こんなときなのに、悟さんも美優さんもこちらに顔も出してくださらないから、なにかあったのではないかと心配になっただけなの。」
美和様は微笑んでおっしゃいましたが、私には到底そのような素振りには見えなかったのでございます。
美和と秀人の本性が…!
「世間知らずのお嬢さん」って、言ってもいろいろですね。
怖い。