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ショートストーリー 月だ

作者: 夢前孝行
掲載日:2021/08/25

Sがまだ二十七歳の頃、好きな娘がいた。

 三年前入社してきた事務員だが、入社当時のいも娘が、化粧もおぼえ、なにやらすっかり女らしくなって、

色気もそこはかとなく漂わせ、いい女になってきたいたのです。

 最初はSも全然意識していなかったのですが、日に日に女らしく変身している彼女に、

ある日、会社が終わってから思い切って、デートに誘ったのです。

 


 夜の姫路城に行って、城内にある姫山神社の近くのベンチに座り、Sは好きだと、

告白しようと思うのですが、小心者のSは切り出せず、もじもじしていたのです。

もう彼氏がいるかもしれない、そんな不安がSを襲うのです。

 彼女はSなど眼中にないかもしれない。

 夜空には、真ん丸いお月さんが出ていて、二人を見ています。

 それに気付いたSは『月だ』と思わず叫んだのです。

すると、彼女が急にSにもたれかかってきて『私も』と言ったのです。

 その上、チュッとキスまでしてくれたのです。

 Sは何がなんだか、わかりません。

 どうして、彼女が抱きついてきたのか、キスまでしてくれたのか見当がつきません。



 それから一年後、Sは彼女と結婚したのです。

 その彼女が、初デートの日のことがよほどうれしかったのか、

今でもあの夜のことを鮮明に覚えていると言って、Sが『すきだ』と告白してくれていなかったら、

結婚していなかったわ、と夕飯のとき言うのです。



 実を言うと、もうひとり彼女に言い寄ってきていた男がいたのだ。

 でも、彼女はSが好きで好きで仕方なかったのです。

 あの日、Sがデートに誘っていなくて、好きだ、とも言わなかったら、

おそらくもう一人の男と結婚していたと言うのです。

 Sは箸を止め

「好きだ?」

 Sはそんなこと言った覚えがないのです。

 おかしい、何かの間違いでは!

 思いをめぐらしました。

 確かあの時『月だ』と言った記憶がある。

 ひょっとすれば、

 そこで始めてあの夜、彼女が抱きついてきて、キスまでしてくれたわけが今頃になってわかったのです。

 Sはあの時、月を見て『月だ』と言ったのを、彼女が『すきだ』と聞き違いしていたのです。

 Sはあれは『月だ』と言ったんだ、ともいまさら言えず、

「そうか」

 と相槌はうったものの『月だ』と言ったことは、墓場まで持っていかなくちゃと、思ったものでした。

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