ショートストーリー 月だ
Sがまだ二十七歳の頃、好きな娘がいた。
三年前入社してきた事務員だが、入社当時のいも娘が、化粧もおぼえ、なにやらすっかり女らしくなって、
色気もそこはかとなく漂わせ、いい女になってきたいたのです。
最初はSも全然意識していなかったのですが、日に日に女らしく変身している彼女に、
ある日、会社が終わってから思い切って、デートに誘ったのです。
夜の姫路城に行って、城内にある姫山神社の近くのベンチに座り、Sは好きだと、
告白しようと思うのですが、小心者のSは切り出せず、もじもじしていたのです。
もう彼氏がいるかもしれない、そんな不安がSを襲うのです。
彼女はSなど眼中にないかもしれない。
夜空には、真ん丸いお月さんが出ていて、二人を見ています。
それに気付いたSは『月だ』と思わず叫んだのです。
すると、彼女が急にSにもたれかかってきて『私も』と言ったのです。
その上、チュッとキスまでしてくれたのです。
Sは何がなんだか、わかりません。
どうして、彼女が抱きついてきたのか、キスまでしてくれたのか見当がつきません。
それから一年後、Sは彼女と結婚したのです。
その彼女が、初デートの日のことがよほどうれしかったのか、
今でもあの夜のことを鮮明に覚えていると言って、Sが『すきだ』と告白してくれていなかったら、
結婚していなかったわ、と夕飯のとき言うのです。
実を言うと、もうひとり彼女に言い寄ってきていた男がいたのだ。
でも、彼女はSが好きで好きで仕方なかったのです。
あの日、Sがデートに誘っていなくて、好きだ、とも言わなかったら、
おそらくもう一人の男と結婚していたと言うのです。
Sは箸を止め
「好きだ?」
Sはそんなこと言った覚えがないのです。
おかしい、何かの間違いでは!
思いをめぐらしました。
確かあの時『月だ』と言った記憶がある。
ひょっとすれば、
そこで始めてあの夜、彼女が抱きついてきて、キスまでしてくれたわけが今頃になってわかったのです。
Sはあの時、月を見て『月だ』と言ったのを、彼女が『すきだ』と聞き違いしていたのです。
Sはあれは『月だ』と言ったんだ、ともいまさら言えず、
「そうか」
と相槌はうったものの『月だ』と言ったことは、墓場まで持っていかなくちゃと、思ったものでした。




