三十三話 古き賢者のまどろみ
立派な体格の老冒険者が、赤毛の少女を担いで崩れる塔から無事に離れた。
その後はさしたる問題も起こらず、少女は心配する両親の元へと帰される。
それまで目に涙を浮かべつつも気丈に振舞っていた少女が泣きじゃくる姿を見て、安堵と罪悪感がエンケ・ファロスの胸を占めていた。
「――?」
ふと、老冒険者が顔を上げて空を見上げる。
「我の姿が見えて…………いる訳がない、な」
一瞬だけ驚いたエンケの表情は、すぐに苦笑へと変わっていく。
実体を持たない精神体としてシュクフ村上空に漂うエンケの顔は、ヴァルアスとの戦闘中とは別人のように落ち着きのある知性的なものとなっていた。
魂を精神体と為して肉体から分離させる秘術。人族が魔力を扱う術が理術と呼ばれ始めた時代に存在したその儀式は、肝心の精神体が空中に散逸してすぐに消えてしまうために何ら実用性のないものだった。
何しろそれは、賢者とも呼ばれていた当時の理術使いたちが寿命を延ばすことで研究時間を長く確保しようとした試みであったのだから。
しかし一人の天才がついにそれを成し遂げた。
無限に近いほどの再生能力を持つ一種の魔導具へと己の身体を改造し、そこへ精神体を再度結びつけることで、何度死しても肉体が再生して蘇る不死の賢者と成り得たのだった。
「…………」
己の愚行を思い出すエンケは、先ほどより薄くなってきた体で苦い表情をする。
どれだけ優れた術法で寿命を延ばそうと、その魂は人族だ。
元より人族の十倍程度の寿命を持つ竜族とは違い、悠久を過ごすだけの強靭さは持ち合わせていない。
百年を倍も過ぎれば、人族の魂は徐々に狂いゆく。それは避けようのないことで、予測することもできたはずだった。
「しかし、ようやく……」
あまりに優れた完成度であったが故に、自分で壊すことも叶わなかった“不死”は、英雄の手によってようやくのまどろみへと至りつつあった。
半端な存在に数だけ揃えて討伐などされようものなら、半分以上狂った精神ではどんな反撃をしてしまうか知れたものではなかった。
それ故に、確実に事を成せる英雄を望んでいた。
「最近の戦争?であったか……、その活躍以降も度々その名を聞いた冒険者ヴァルアス・オレアンドル。我のような隠遁者でもその名を知る御仁は噂以上のものであったよ」
改めて老冒険者を称賛し、そして未だ泣き止まない少女へ心中で詫びて、エンケの姿はいよいよ霞んで精神の領域からも消えていく。
「リーフ……済まんな…………、少し長く……待たせたかもしれん……」
もはや何年前かもわからぬほどの昔に亡くした伴侶の名を口にして、古き賢者エンケ・ファロスの精神体は青い空へと混ざって消えていったのだった。




